RAW 少女のめざめ
少女がカニバリズムに目覚め、人を食って食って食いまくり、食いまくった先に何かの境地を見出す、文字通り”人を食った”話かと思っていたら、少し違った(笑)。愛情とか道徳的な何かを感じさせるうえ、笑えるシーンもあって楽しめる作品です。ネタバレあり。
―2018年公開 仏=伯 98分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:カンヌ国際映画祭批評家連盟賞を受賞したジュリア・デュクルノーの長編デビュー作。ベジタリアンの獣医一家に育ったジュスティーヌは、家族と同じ獣医学校に進学。新入生の通過儀礼として生肉を食べることを強要されたことをきっかけに、次第に変貌してゆく。主演はデュクルノーの短編「junior」で女優デビューした若手女優ギャランス・マリリエ。(KINENOTE)
あらすじ:厳格なベジタリアンの獣医一家に育った16歳の少女ジュスティーヌ(ギャランス・マリリエ)は、両親や姉と同じ獣医学校に進学する。初めて親元を離れ、見知らぬ土地の寮で過ごす学生生活。新しい環境で不安に駆られながら日々を送ることになった彼女は、新入生の通過儀礼に遭遇し、上級生たちから生肉を食べることを強要される。断り切れず、やむなく家族のルールを破って人生で初めて肉を口にするが、これをきっかけにジュスティーヌの本性が露わになってゆく。次第に変貌を遂げる彼女が、本当に求めるものとは……。(KINENOTE)
監督・脚本:ジュリア・デュクルノー
出演:ギャランス・マリリエ/エラ・ルンプフ/ラバ・ナイト・ウフェラ/ジョアンナ・プレイス/ローラン・リュカ/ブーリ・ランネール/マリオン・ヴェルヌ
導入部までの適当なあらすじ
主人公のジュスティーヌはベジタリアン。両親、特に母親はけっこう過保護な感じに思える。レストランでジュスティーヌが頼んだマッシュポテトに肉が入ってたら速攻で店に文句つけちゃうくらいだからね。モンペかよと思ってしまった。
ジュスティーヌは神童と期待される知能の持ち主。両親も卒業した学校に入学することになった。入ったみたはいいものの、彼女は大事に育てられたのか、頭はいいけど環境に適応するには幼い感じ。
だから、体育会系の手荒い新歓パーティに面くらったり、ルームメイトが女性ではなくイケメンではあるもののゲイであることに戸惑っている様子。
実は彼女には、上級生のクラスにアレックスというお姉さんが在籍している。ジュスティーヌは姉に会えてうれしいんだけど、アレックスは学生生活に順応しきってて、ジュスティーヌをかまってはくれるものの、けっこう冷たい。
なので、新入生の通過儀礼みたいなウサギの臓器を食べるイベントで、ジュスティーヌがベジタリアンなのわかってるのに、嫌がるジュスティーヌに無理やり臓器を食わせちゃう。
学校生活も、いやな先生に優秀であることをなじられたりして辛い。ジュスティーヌはいろいろストレスを抱え始めているようだ。そんな彼女の体に変化が訪れる。それはなんと、人肉を食いたいという欲求を抑えられなくなる恐ろしい症状であった。
で、どうなるのかという話。
普通な感想
音楽にあんまり詳しくないのでこのブログの映画感想では作中で使われる曲にはあまり触れることがないけども、この作品で使われている曲はどれも琴線に触れるいい音楽であった。
特に、ジュスティーヌが鏡に向かって一皮むけた自分を見て楽しんでいるシーンで流れるラップ。歌詞もばっちりな内容。
あと、序盤のシーンで思ったのは、こんな学校には通いたくないということだ(笑)。バリバリの体育会系。あんな血のついた白衣で過ごしているような環境で、まともに勉強できるんかいな。
ネタバレ感想
笑えるシーンが多い
この作品、俺はコメディ映画なんじゃないかと思った。けっこう笑えるシーンあるからね。例えば、ジュスティーヌが姉のアレックスの勧めでブラジリアンなんとかって方式で脱毛してもらうシーンで、彼女のお股に犬が寄ってくるとことか。
さらには、初めて口にする人肉に衝撃を受けるシーン。あの瞬間に流れる壮大な音楽も効果的で、驚くほど美味しい肉にジュスティーヌが感動しているのがよくわかるうえ、すげぇ笑えた。
あと、ルームメイトでゲイのアドリアンがフットサルみたいのをしている姿を、獣のような目つきで凝視するジュスティーヌ。あの目つきヤバすぎだろ。ここの音楽もまたいいんだよなぁ。そんで、ともかく笑えてくる。
俺は六本木の東宝シネマで鑑賞したんだけど、上記のシーンについて他のお客の笑い声が聞こえることはなかった。俺は声を上げずに笑ってたんだが、笑いのツボは人それぞれってことだな。それともみんな、俺と同じく声を上げないようにしてたのか。
ジュスティーヌは美少女だけど、汚い
で、ジュスティーヌは美少女なんだけども、俺が彼女について言いたいのはただ一言、とにかく「汚い」(笑)。役者の女の子は本当にすごいと思うんだが、とにかく終始汚い。観ての通り汚いのだ。
髪を食べて吐き出したり、立ち小便しちゃったりとか(ここは姉との絆を感じるいいシーンだと思う)、ささみをむさぼり食ったりとか、その汚さは非常に動物的で、人肉を食いたい欲望を理性と道徳心で抑えようとしているのに、それにあらがえずに動物のような行動をしてしまうところに彼女の変貌ぶりが見て取れる。
とくに終盤のほうで姉の悪戯にはめられて、酒でベロベロになって本能むき出しになってしまっている醜態を動画に収められちゃっているシーンの彼女は、まるで犬のようだ。しかし、この作品の面白さは、人間のむき出しの欲望を表現しているところにあるのではないか。
好きだから食べさせて!
ジュスティーヌと姉のアレックスはカニバリズムに目覚めてしまった同種の人間で(ラストで説明されるように、母親がそういう人だから当然なのだが)彼女らが公衆の面前でお互いを噛み合って喧嘩するシーンは、まさに人ならぬ動物が見せる格闘であり、まるで動物の生態をカメラに収めて放映するドキュメンタリーのワンシーンのようである。
しかし、彼女らは動物に戻って闘争心むき出しで争い、血みどろになりながらも、実はお互いに致命傷を与えていない。見方によっては甘噛みをしているのだ。つまり愛情表現なのだ。
周囲の人間は面白がって彼女らを動画に撮影しているが、実は彼女らほど相互に愛し合っている存在はなく、周囲の人間たちのほうが、人の面を被った鉄面皮なのではあるまいか。そこに血は通っているのだろうか。
食うことは罪なのか
人間は生命を食わずには生きられない生物だ。野菜しか食わぬとしても、野菜も有機物であり、命のある生き物である。動物はいわずもがな。
それを食って血肉にするということは、動物たちにとっては食欲と自己保存の欲求に従った行動であり、人間も動物である以上は同じことをしているのである。だが、言葉により知性を獲得したことで、欲望を押し隠すための理屈をこねるようになった。
であるから、命ある生き物を食うことに対して罪の意識が生まれる。食うことに善悪の基準が生まれる。何は食っていい。何は食ってはいけない。しかし、本来そんな基準はなかったのだ。ないのだ。だから人間は本来、何を食ってもいいのである。
他の命を奪って血肉にすることで生物は進化を遂げてきた。その意味では生物は一つにつながっており、家族である。と考えればもしかすると、愛する自分のために他の命を食らうことは、自己愛であるいっぽうで、他者の生存を認めたうえで生き血にする、自分のものにする、他の存在を自分と一つにするという、愛情なのかもしれない。
かなり無茶苦茶言っているが、そんなことを考えた作品であった。
猿に自己意識はあるか
ついでにだけど、ジュスティーヌが学友と昼ご飯を食べてるシーンで、彼女は「猿には自己意識がある」と述べる。猿に自己意識はあるのだろうか。俺は自己意識は言語を操れないと生まれないと思っている。
思っているのだが、直感としては、猿にも自己意識があるような気がする。犬や猫など、ほ乳類には自己意識があるような気がする。であるから、彼らにも人間ほどではないが、意思疎通ができる言語のようなものがあるのかもしれぬ。
ジュスティーヌのその言に対して、周囲は批判的な見解を述べる。すると彼女は「自己意識がないと思っているなら、なんで獣医になんてなろうと思うの?」と言う。なるほど。彼女にとっては動物も自分も同じなのだ。医者も獣医も治す対象は同じだと思っているのだろう。それも人間の言葉でいえば、愛情ということか。
他者と自己の区別がない生物には、コミュニケーションは必要がない。主張するものがないのだから。だから、仮に他の動物に自己意識があるとしたら、彼らも人間と同じく他者と自己の区別があるのだろう。となるとやはり、人間と同じくそれぞれが、固有の存在なのである。そこに差はない。理屈のうえでは。
善悪を超えた言葉を獲得するために、みんな人間であることをやめよう。
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