惡の華
―2019年公開 日 127分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:押見修造による同名コミックを、「覚悟はいいかそこの女子。」の井口昇の監督と伊藤健太郎の主演により実写化。中学2年生の春日高男は、衝動に駆られ佐伯奈々子の体操着を持ち去ったところをクラスの問題児・仲村佐和に目撃され、彼女に隷属することになる。脚本は「心が叫びたがってるんだ。」の岡田麿里。息苦しい日々をやり過ごす春日を伊藤健太郎が、春日を服従させる仲村佐和を「Diner ダイナー」の玉城ティナが演じるほか、オーディションで選ばれた秋田汐梨、「暗黒女子」の飯豊まりえらが出演。(KINENOTE)
あらすじ:山々に囲まれ、閉塞感漂う地方都市。中学2年生の春日高男(伊藤健太郎)は、ボードレールの詩集『惡の華』を心のよりどころにして、息苦しい日々をどうにかやり過ごしていた。ある日の放課後、教室で憧れのクラスメイト・佐伯奈々子(秋田汐梨)の体操着を見つけた春日は、衝動に駆られ、その体操着を掴んで逃げ出してしまう。しかし一部始終をクラスの問題児・仲村佐和(玉城ティナ)が一部始終を目撃しており、この一件を秘密にする代わりにある契約を持ちかける。このことから仲村と春日の悪夢のような主従関係が始まった。仲村からの変態的な要求に翻弄されるうちにアイデンティティが崩壊し絶望を知る春日。『惡の華』への憧れと同じような魅力を仲村にも感じ始めていたころ、二人は夏祭りの夜に大事件を起こす。(KINENOTE)
監督:井口昇
原作:押見修造:(『惡の華』(講談社))
出演:伊藤健太郎/玉城ティナ/秋田汐梨/飯豊まりえ/鶴見辰吾/坂井真紀/高橋和也
ネタバレ感想
漫画原作は未読。俺の中で青春変態映画と言えば、これまた漫画原作の『月光の囁き』だ。これは本当におもしろい。若い変態カップルのピュアな恋や若者の自意識云々が描かれているというより、男女の関係性の中から普遍的とも言えるような愛情が芽生えていく感じのある良作であった。
で、当時はあの作品を鑑賞したときに、この登場人物たちの持つフェシティズムとでもいえそうな変態性を描くことで人間同士の交流を描いたあのスタイルこそが、なぜか日本的なものであり、邦画もああいう部分を掘り起こしていけばいいのに、なんて偉そうなことを思ったもんである。
てなことで、別作品の話はこのくらいにしといて、本作の感想。率直に言って、べつに面白くもなかったな。なんというか、登場人物に感情移入がしづらいのだ。なぜか。俺が中年になったからなのか。そうかもしれない。しかし、そうでもないかもしれない。
なので感情移入しづらさを言語化しておくと、まずは主人公の春日君。彼は仲村さんから変態のレッテルを貼られることになる。なぜかというに、淡い恋心を抱いていた佐伯さんの体育着を図らずも、衝動的に盗むというか手に入れることになり、それでムラムラしちゃったことを仲村さんから知られてしまうからだ。
とはいえ彼は変態ではない。思春期の男子が、好きな子の体育着の匂いを嗅いだり着衣してみたりしてムラムラしたい欲望があるかどうかは、よくわからんし、俺にはなかったが、そうしたことは、別に変態的であるかというにはあたらんように感じる。
むしろ仲村さんの春日に対して期待した変態性というのは、自分以外の人間はすべて「クソムシ」にしか見えないということであり、そんな人物たちと生きなければいけない人生に絶望していることにあったように思う。
つまり、この作品における仲村さんの言う変態性とは、自分自身の感情を共有できる隣人を持てない孤絶性と、そもそも生きる価値がなさそうに思える人生に対する絶望感を有している人間か否かということにあるのではないかと俺は感じたのだ。
では春日はそういう絶望感や孤独感を有しているのかと思うに、彼は自身で吐露するように空っぽの人間なのだ。しかし、彼はボードレールの『悪の華』を読んでいるし、あとはバタイユやら萩原朔太郎やらなんやらを読んでいる。そういうものが読める人間であることが、他の人間と俺は違うと感じられる特異性を育んでいるのであり、他の同級生たちよりもある意味では上から目線でいられるアイデンティティになっているのだ。つまり本を読むことが。
ところが彼は、『悪の華』の何がすごいのかに言及しないし、読んでいる他の作家や詩人の何が素晴らしいのかを語る言葉を持たない。自身の考えというか寄る辺なき思いを言語化できない空っぽさに苦しんではいたようだが、ただ読むことをよりどころにしてしか他者に対する優位性を見出せない男なのであり、その意味では他の同級生の男の子たちとさして差はないのである。
しかし、そのなぜだかわからない特異性を持て余していることと、自意識の強さが彼を苦しめているのでありーーとかそんな話はどうでもいいか。
要するに、仲村さんが春日に求めたようには、春日は人生には絶望していないし、思春期の少年らしく、誰もがするようなまともな恋愛をしてみたいだけの男ーーのようにしか俺には見えなかったのである。しかし、仲村さんは彼の現状について、それとは違う期待を持って、彼の弱みを握ることで奴隷的な扱いをする。期待してるのだ。他者と自分のクソムシさを共有することを。その過程の中で、春日には、仲村さんに対してある種の別の感情が芽生える。
ある夜、仲村さんから学校の教室に連れていかれた彼は、チョークやら墨汁をつかって、己の感情を吐き出せと仲村さんから命じられて、それを行っていくうちに抑圧から解放されて楽しくその瞬間を過ごすのだが、彼には自分のモヤモヤを言語化する能力がないので、自分がいかに仲村さんが書かせたいと思っているような自分のクソムシさ加減を書き出すことができない。だから、仲村さんに言われた言葉を黒板にかくことしかできないし、筆をとっても床を塗りつぶすような行為しかできない。
ところがこの映画ではなぜか、その行為によって二人の距離が近づくのだ。おたがいが求めているようなことは違う印象を受けるのに、双方の勘違いによって、お互いの距離は近づく。仲村さんは誤解したまま春日に自分と何かを共有しているように感じたのか、この先、さらに彼に期待するようになるし、春日は、自分を解放し導いてくれたような気のする仲村さんに依存するようになるのだ。
このすれ違いや勘違いは人間の関係性にはよくあることだろうから別にいいんだけど、その展開が何だか強引だし、さらにその後のくだりで、春日と仲村さんが街の向こう側の世界に逃れんとするシーンで、なぜか唐突に佐伯さんが二人の場所を突き止めて追いかけてくるところなどは、どんな千里眼の持ち主なんだよと思ってしまった。
で、その佐伯さんなんだけども、この人は清純女子みたいなキャラでありながら、けっこう人間的なリアリティのある立ち居振る舞いをする人で、自分大好き人間なんだろうなと思うところに、かなり人物描写的な説得力がある人なんだけども、中学から高校生になり、春日に再会したときに、わざわざ春日に仲村さんの現在の所在地を教えてやるとか、どんな聖人君子だよと思わずにはいられない。それまでにけっこう春日のことを嫉妬もあってか邪険に扱ってた人間がなぜにそんなことをするのか。
あんなことしちゃったら春日に対してかなり理解のある人だということになり、しかもそんな大人の対応をして、春日が前に進むために手を差し伸べてやってるわけで、どんだけ春日にとって都合のよい人物なんだと、話の展開というか、結論に導くためのご都合主義的な人物にしか見えなくなってくる。
もちろん、10代くらいの頃は女性のほうが男よりも社会性があるというか、精神的な成長が早いというか、大人な振る舞いをする人もけっこういて、それは個人的にも経験があるんだけど、それはその場での振る舞いであって、わざわざ数年も過ぎたあとの過去の人間にそこまで関わるかいねーーと思ってまうのだ。
で、仲村さんは仲村さんで、自殺願望でもあったみたい。ところが、春日と、常盤さんというあらたにできた春日においては心のよりどころ的存在の出現によって、自殺を踏みとどまることになる。それがあの、あまり楽しそうには見えない演技丸出しみたいな砂浜での水かけシーンだ。
ともかく、仲村さんは仲村さんで、春日に対してサディスティックな関わりをしてたくせに彼のことをけっこう理解していて、それは、高校時代に突如現れた常盤さんという人も同じで、つまり何が言いたいのかってていうと、春日に関わった3人の女性が、あまりにも彼にとって都合がよすぎるのである。母親が3人いるんじゃないかと思わせるような献身性なのだ。ただのイケメンモテモテ野郎じゃん。
とか長々書いてきて、俺が言っているのは、春日がモテすぎることが気に入らんということになっているような気がしてきた。まぁ実際そうなんだけど(笑)。
鶴見慎吾が演じた春日の父親も、意味ありげなシーンがありつつも、何だかよくわからんキャラのままで終わってるし、だったらそんなシーンいらないだろと思う。ついでに、あの祭りの自殺演技とか茶番にしか見えないし、ラストの展開も、登場人物たちが成長したようには見えないし、彼や彼女らが何の向こう側を見られたのかようわからん
こんなんだったら、あんな山の向こう側を目指す(おそらくなんかの比喩なんだろうけど)よりも、スピードの向こう側を目指した不良漫画の『特攻の拓』のほうが面白いだろ。て、若い人は知らねぇか(笑)。そもそも作風が全然違うしな。
ともかく、原作読んでないんだけど、この作品って漫画だからこそいいのであって、わざわざ映画にする必要あったんかなぁと思った。なんか、起こることにリアリティが薄いんだもん。
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