ダンサー・イン・ザ・ダーク
鑑賞後に考えずにいられなくなる内容。単に主人公セルマの受難を描くだけでなく、彼女と彼女をとりまく面々の、相手にとってよかれと思って成したことが、当人にとっては必ずしもプラスになるわけではないと思わせる部分にこの作品の重みがあると感じた。ネタバレ少し。
―2000年公開 丁 140分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:目の不自由なシングル・マザーがたどる悲劇を描いた異色ミュージカル。監督・脚本は「奇跡の海」のラース・フォン・トリアー。撮影は「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のロビー・ミュラー。振付はヴィンセント・パターソン。主演・音楽はビョーク。共演は「ヴァンドーム広場」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「グリーンマイル」のデイヴィッド・モース、「8mm」のピーター・ストーメア、「奇跡の海」のジャン・マルク・バールほか。2000年カンヌ国際映画祭パルムドール、主演女優賞受賞。(KINENOTE)
あらすじ:1960年代、アメリカの片田舎。チェコからやってきたセルマ(ビョーク)は、女手一つで息子ジーン(ヴラディカ・コスティク)を育てながら工場で働いている。セルマは遺伝性の病気のため視力を失いつつあり、ジーンも手術を受けないと同じ運命をたどるのだが、それを秘密にしつつ、手術費用をこつこつ貯めていた。彼女の生きがいはミュージカル。アマチュア劇団で稽古をしたり、仕事帰りに友人のキャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)とハリウッドのミュージカル映画を観ることを唯一の楽しみとしていた。しかしセルマの視力は日増しに弱くなり、ついには仕事のミスが重なり工場をクビに。しかもジーンの手術代として貯めていた金を、親切にしてくれていたはずの警察官ビル(デイヴィッド・モース)に盗まれてしまう。セルマはビルに金を返すように迫り、もみ合っているうちに拳銃でビルが死んでしまった。やがてセルマは殺人犯として逮捕され、裁判にかけられる。しかしセルマはジーンを守るため、またビルが妻に内緒で破産していたという秘密を隠し通すため、法廷でも真実を語ろうとはしない。そしてジーンが目の手術を無事受けることだけを願いつつ、自分は絞首台で死んでいくのであった。(KINENOTE)
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
出演:ビョーク/カトリーヌ・ドヌーヴ/デイヴィッド・モース/ピーター・ストーメア
ネタバレ少し感想
ラース・フォン・トリアーの作風はキツイ
ラース・フォン・トリアー監督の作品を鑑賞したのは『ドッグ・ヴィル』に続いて2作目。本作は2000年に公開され、いつか鑑賞しようと思っていながら放置していた。今回ようやく意を決して観てみると、予想通り人間の善悪の基準や道徳観・倫理観にメスを入れてくるなんとも嫌な感じの内容であった。
クズ人間が登場する鬱展開
物語中盤あたり、デイヴィット・モース扮する警官のビルが実は腹黒いというかどうしようもないクズ人間だったことがわかってくるあたりから、セルマの将来には暗いものしかないことを予見させ、まさしくその通りの結末を迎える鬱展開。
常識的な善悪の基準で考えるに、本作でどうしようもない人間だと思ってしまうのは、このビルとその奥さんである。どちらも共感しづらい人ではあるものの、そういう意味では人間臭く、自分にもああいうクズな要素はあるだろうと思わせる地続き感のあるキャラであった。
例えば奥さんのほう。彼女はビルが遺産持ちであることを他人に自慢せずにはいられない。あれは露骨すぎるものの、何かを自慢したくなる気持ちは誰の心にもあるものだろう。
一方のビル。彼女は奥さんを愛しているが、彼女の浪費癖を抑制しようとする勇気を持たない。愛するがゆえに、相手に真実を告げられずに遺産を使い果たして狼狽している。その事実を奥さんには言えない。
セルマに対しては自殺すらほのめかす弱さを見せておいて、とった行動はあれである。しかし、自分の弱さと向き合うというのは中々に辛いものだ。
そう考えると、相手との関係に亀裂が走ったとしても、打ち明けるべきことを打ち明けられないというシチュエーションは誰にでも訪れるであろうことではないか。
黙して語らぬ愛情は伝わるのか
セルマ。彼女は一見すると、息子思いの女性だ。自分の息子が、将来失明せずに過ごせるように手術代をコツコツと貯金している。彼女は息子を愛している。彼女の沈黙と行動は、全て息子のためにあったのだと思わせる。
だからこそ迎えるあの結末は、非常に悲惨だ。気の毒である。だがしかし、「息子の手術に影響があるから」という理由で様々な場面で沈黙を貫きとおす彼女の言動は、息子にとってよいことだったのだろうか。
彼女が息子と触れ合っていることが描かれる現実のシーンにおいて、いつも彼女は息子を叱るか、彼の希望を突っぱねている。そして、2人の周囲にいる人間が息子をフォローしてやっているのだ。
別に叱るなとか甘やかせとか言いたいわけではないが、彼女は自分の沈黙の愛情を、息子に伝わるように表現したことがあっただろうか。俺はないと思った。
俺は子どもを持たないのでよくわからんが、子どもにとって親の愛情を直に受けることは、その成長過程においてかなり必要なことではないかと思う。
なぜなら、それが愛情を注がれる子にとって、根拠のない自己肯定感を育くんでくれるものだと思うから。
自己が生きていることを何の根拠もなく愛でてくれる。それこそが、親が果たしてくれる最上の愛だと思う。
しかし、セルマにはそうした直接的愛情表現が少ないように思われた。もちろんそれは、個人的な印象ではあるが。
わかってほしいけど語らない
セルマは空想と妄想の中で生きる女性であり、彼女の言動はある意味では独善的だ。物語の救いともなっている数々のミュージカルシーンは、彼女の現実逃避を表している。すべて彼女の空想の中での出来事であり、本当はそうなってほしい、自分の言動を他人に肯定してほしいという願望にすぎない。
セルマは、現実世界では頑なに他人の好意を拒否しながら、空想の中ではそういう自分を肯定してほしいと思っている。
お金の工面のため、工場での夜勤を希望した彼女は、他人の力を借りずに作業ができると言いきる。しかし、失明寸前の彼女には、それを全うすることができない。そして、彼女を案じて無給を承知で手伝いに来てくれた友人に抱きつく。
しかし、セルマは友人に抱き着いて気持ちを表現するものの、感謝の言葉は述べない。彼女の最大限の感謝の気持ちと、人生に疲れたような日々を送る友人を称賛し、鼓舞したいという思いは空想の踊りの中で友人に示される。セルマの感謝と友人への思いは、当の本人にはどこまで伝わったのだろうか。
善性を帯びた行為も他者には迷惑
なぜ、この作品の登場人物たちは、セルマにああも親切なのか(もちろんそうでない人もいるが)。彼女は失明せんとしていることを、友人以外には伝えていない。伝えようとしない。それはハンディを抱えていることで同情を買いたくないという思いによるものなのか。
常に、他人と対等の関係でいたいがために弱さを見せようとしない態度は孤高であり、称賛されるべきことかもしれないが、その彼女の独善性が、この物語においては周囲の人間の迷惑になっているようにも感じる。
つまり何が言いたいかというと、彼女はビルの秘密を最期まで守りとおし、息子のために自分を犠牲にして働き、その苦難を人に伝えて支援されることや同情を買うことを良しとせず、常に自身の力で道を切り開こうとする聖人的なキャラに見える。
だが、その彼女のスタンスは、一方では独りよがりな独善的態度といえるのではないかということだ。
人生を生きるにおいて、自分も含めた人間は、それぞれに何か負の要素を抱えて生きている。それを出自や環境のせいにするのはいかがなものかと思うが、黙して語らぬ聖人的行為も、その頑なさを貫き続けるにおいては、周囲に対する迷惑行為にもなり得る。
その意味ではもちろん、彼女に対していろいろ世話をしたがる友人らも、別の意味で独善的であり、その独善性は、社会常識的には善である。それゆえ、セルマにとっては迷惑行為になり得る。
それらを踏まえて考えるに、他者に対する節度ある関係とは、他者が固有の、替えの利かない存在として在り、そのうえで人間的個性を持つことを受容・尊敬したうえで成り立つのが理想ではないか。
そうであってこそ、相互の関係の中で、黙すべきは黙し、助けを乞うべきときは素直に頭を垂れ、絆を深めることができるように思う。それがたとえ、綺麗事だとしても。
この作品で描かれるセルマの受難は、そういう意味では、起こるべくして起きたという見方もできるのではないか。
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