少林寺三十六房(1978)
解説:実在の人物とされる劉裕徳をモデルに描かれた少林寺ものの一つで、悪の将軍によって師や友人たちを殺された若者が、少林寺に入門。それぞれ異なる技を鍛錬する三十五からなる房の中で修行を積み、やがてヌンチャクの変形、“三節棍”を生み出し卒業、復讐を果すまでを描く。 (all cinema ONLINE)
ワクワクしてくる修行シーン
すげぇ懐かしい。何歳かも覚えてないガキの頃、修行シーンを見て自分も少林寺に入門したいと思わされた映画。修行シーンしか覚えてなかったが、もう一度見てみたら、こんなストーリーだったのね。
カンフー映画は復讐映画だ
カンフー映画って復讐映画が多い。師匠の仇を討つ話だったり、圧政に反抗する英雄の話だったり。こうした映画を見て思うのは、歴史書の『史記』にも見られるように、中国人には”会稽の恥を雪ぐ”とか、”臥薪嘗胆”とかいった気質が強いと感じることだ。あるエピソードからそういう故事成語が生まれ、定着することそのものが、ここで言う中国人気質の表れなんだろうとも思う。
復讐を果たすって、強靭な精神力が必要だよね
主人公たちは英雄的行動をとるが、それにより身の回りの人間が迷惑を被ることに鈍感である。これは想像力の欠如と言われても仕方あるまい。そうでなければ行動的な人間ではいられないのも確かだが…。
ともかく、周囲の人間が傷つけられたことに怒り、自分も彼らに対して加害者であったことを考慮せずに被害者面して復讐に燃えるわけだ。悪い、とは思わない。しかし、何か違和感があることも確かだ。それとも、自身の復讐を果たすために、周囲の人たちへの迷惑は織り込み済みでやるという覚悟を持っているのか。そういうところは作品の描写にはないように思えるのでわからん。
主人公の行動が善か悪かなんて、面白ければどうでもいい
しかしまぁ、それは私的な疑問であり考えだから、この映画の質が悪いなんて、ちっとも思わない。何回見ても、とても楽しい傑作カンフー映画である。本当は、ガキの頃のようにただ興奮して映画を見ていたいだけなんだけど、長じるにつれて上述のような見方をしてしまうこともある。これはいいのか悪いのか。
この映画では描かれていない余談だけど、武の道は追求していくと最終的に悟りにつながる。不射之射の境地。ともかくやっぱり、修行しているシーンが一番面白かったであります。三つ子の魂百まで。おあとがよろしいようで…。
この記事は2003年に書かれたものです。
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