ジョーカー(2019)
―2019年公開 米 122分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:悪のカリスマ“ジョーカー”の誕生をオリジナルストーリーで映画化し、第76回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したサスペンス。ホアキン・フェニックス演じる孤独だが心優しい男アーサーが、世界のすべてを狂わすジョーカーに変貌した理由が明かされる。共演は「レイジング・ブル」のロバート・デ・ニーロ、「デッドプール2」のザジー・ビーツ。監督は「ハングオーバー!」シリーズのトッド・フィリップス。(KINENOTE)
あらすじ:孤独だが心優しいアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、母と二人暮し。「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを夢見ている。都会の片隅でピエロメイクの大道芸人をしながら母を助け、同じアパートに住むソフィー(ザジー・ビーツ)に秘かな好意を抱くアーサーは、笑いのある人生は素晴らしいと信じ、ドン底から抜け出そうともがいていた。だが彼は、白い顔のピエロメイクに緑の髪という異様なルックスと劇場型犯罪で人々を戦慄させ、世界のすべてを狂わそうとする唯一無二の悪のカリスマ“ジョーカー”へと変貌していくのだった……。(KINENOTE)
監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス/ロバート・デ・ニーロ
ネタバレ感想
人間はみんな、善人でもあり悪人でもある
俺はアメコミの映画がそんなに好きではないので、最近のいろいろなアメコミ映画作品はほとんど鑑賞していない。バットマンの映画は10代の頃、ティム・バートン作品と、さらにそれより古いやつを、いずれも地上波の洋画劇場で観た記憶が。あと、『ダークナイト』も一応観たことがあるんだけども、あれにはさほど感銘を受けなかった。
でも、この作品は鑑賞したいと思った。あらすじを観て興味を覚えたのだ。そして、善悪について考えるに、非常に示唆的な内容でありそうな気がした。それで鑑賞してみたら、その通りの内容だったので、とても楽しんで鑑賞できた。つまり良い作品だと思った。
ジョーカーは、善人でもあり、悪人でもある。そして、自分も含めた人間は全員、全員が善人でも悪人でもあるのだということを示唆しているところが素晴らしい。
俺は他作品のジョーカーがどういう人物なのか、詳しく知らない。なので、この作品のジョーカーに限っての話ししかできない。以下は、それを踏まえたネタバレ感想。
転機が訪れると悪を選択する
この作品のジョーカーは、登場時は常識のある、どこにでもいそうな倫理観の持ち主として登場している。しかし、いろいろの不幸が重なって、彼は悪の道に解放されていくことになる。そのきっかけは、いろいろある。
あるけども、彼はその悪の道を選ばないこともできた。例えば最初の殺人。そもそも、銃を持ち歩かなければよかったのだ。
だが、彼は持ち歩いた。そして、身を守るために殺人を犯した。
母親と血がつながっていないこと、自分が虐待を受けていたことなどなど、自分の過去の真実を知ったジョーカーは自らの手で母を殺害する。しかし、殺さない選択もできた。でも、彼は殺す。さらに、元同僚も殺す。
この最初の殺人と、母および同僚殺しにおいて象徴的なのは、ジョーカーはどちらの殺人後も、非常に解放的な気分になっているところだ。まるで、人間として何かの成長を遂げたかのような印象すら持たせる。特に、後者の、刑事たちに追われる直前のダンスシーンは完全に自らの葛藤から脱して生き方を決めた人間のすがすがしささえ感じさせる、非常に素晴らしいシーンである。
しかし、その時点での彼は、まだ死ぬつもりでいたらしい。コメディートークショーに出演することになった彼は、自分のあごに銃口をあてて、引き金を弾くギャグの練習をしていた。死ぬことを覚悟していたものと思われる。
ただ、彼はそのギャグを披露することに失敗する。デニーロ扮するマレーが、ジョーカーがうまくギャグをできないでいる間に、その行為そのものを自分のギャグにして、観衆から笑いを取ってしまうからだ。ジョーカーの自殺計画は失敗に終わる。そして、その後に遂行されるマレー殺し。
あれはジョーカーにとっては、自分の見せ場を取られた怒りによる、衝動的な行為だったように観える。しかしあの行為が、彼の悪へ向かう心を抑制していた善性と、完全に決別することになる決定的瞬間となる。
善悪は主観が決める
ジョーカーはショーの中で、「善悪は主観だ。主観が決めるのだ」という意味の言葉を吐く。それを俺流に解釈すると、「善悪に普遍性はない。基準がない。俺はそれを主観で決めるのだ」と言っていることになる。つまり、世間的に悪と思われる行為でも、己にとっては善であるということを、彼は宣言するのである。悪ではなく、善なのだ。彼の主観では、彼の行為のすべてが善行になるのである。
いずれにしても、ジョーカーは、その転機ごとに悪を選択をしないこともできた。鑑賞者は彼に感情移入をしているので、ジョーカーの選択をやむを得ないものと考える人もたくさんいるだろう。しかし、どんな境遇に自分が陥ろうとも、ジョーカーのような選択をしない人もいるはずだ。ジョーカーの選択と半分は同じことをして、半分はしない人もいるだろう。
つまり何が言いたいかっていうと、鑑賞者も全員、善人にもなりうるし、悪人にもなりうるし、そもそも、そのどちらもを抱えて生きている人間だということを突き付けているのが、俺が思う、この作品の優れたところだ。
人間は誰もが虞犯者だ
悪を礼賛しているわけでも、格差が広がる社会を是正すべく、暴動を煽っているわけでもない。ただ、人間全員が、虞犯者であると言っているのだ。誰もが善でも悪でもあり、それを自覚して葛藤するからこそ、他者の善悪に対しても、ある程度の寛容の気持ちが生まれるのではないか。
他人の悪の行為を許すのも、許さないのも、善行を詰るのも、称賛するのも、全て己の主観において行われるのだとしたら、この物語のように、ピエロの仮面をかぶって暴動に参加する人間は、少なくなるのではないか。なぜなら、社会や他人の動きや言葉に左右されずに、自らの主観において、責任を持った選択ができる人間だからだ。その選択が、社会の規範上では悪だったとしても。
――ということで、評判通りの素晴らしい映画であった。
善悪を超えた言葉を獲得するために、みんな人間であることをやめよう
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