アサイラム 監禁病棟と顔のない患者たち
なかなか面白い作品です。精神病っていったい何なんだろうかと考えさせる意味でも、一度くらいは観てもいいと思います。ネタバレたくさんあり。
―2016年公開 米 109分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:エドガー・アラン・ポーの短編小説『タール博士とフェザー教授の療法』を「マシニスト」のブラッド・アンダーソン監督が映画化。新宿シネマカリテの特集企画『カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2016』にて上映。(KINENOTE)
あらすじ:19世紀。イギリス僻地にある精神病院にやってきたエドワードは、驚くべき光景を目にする。革新的な治療法を行っているこの病院の秘密とは……。(KINENOTE)
監督:ブラッド・アンダーソン
原作:エドガー・アラン・ポー:(『タール博士とフェザー教授の療法』)
主演:ケイト・ベッキンセイル/ジム・スタージェス/デヴィッド・シューリス/ブレンダン・グリーソン/ベン・キングズレー/マイケル・ケイン
ネタバレ感想
監禁されているのは健常者
美人だけど、個人的には大した作品に出ていないと思っているケイト・ベッキンセイルの出演映画としてはおもしろいのではないか(笑)。物語は中盤に入る前くらいに一度、なるほどそういう展開か――と思わせる最初のネタバレがある。主人公の精神科医が訪れる精神病院、実は患者たちが占拠して、ボスみたいな奴が院長になりすまして支配しているのである。
すごくつまらないケイト主演の映画↓
主人公も精神病
もう一つのネタバレはラスト。なんと、主人公も精神病患者だったのだ。これ、途中でわかっちゃう人いるんだろうか。俺は全然わからずに鑑賞していたので、おぉ! と思ったのである。彼はケイト扮する美人なご婦人に心を奪われちゃって、彼女をものにするために別の精神病院を脱出してきた患者だったのだ。知能が高いものの、人格が空っぽみたいな奴だそうで、彼女に恋しちゃったことで俄然やる気が出て、精神科医としての人格をつくりだしてケイトにアタックしたというわけだ。すげぇなおい。
最後のシーンはたぶん、別の精神病院だよね。あそこで主人公とケイトは幸せにすごしたんだろうと思わせて劇終である。
脳みそ刺激する手術って怖い
19世紀の精神病の治療には前頭葉をいじくっちゃうロボトミー手術みたいのはなかったようだ。その代わりに電気治療みたいなのやってて、患者をほぼ廃人にしちゃう恐ろしい手術があったみたい(手術になってないように思うんだが)。
ちなみに、こういう恐ろしい手術みたいのやってた作品に、ジョニー・デップが出演している『フロム・ヘル』ってのがある。内容はまぁ普通なんだけど、この作品のジョニーはめちゃくちゃカッコいい。
本物の院長も鬼畜すぎだろ(笑)
で、この物語では精神病者のボスに、本当の院長だったオッサンがその手術をやられて廃人になっちゃうわけだが、本物院長もかなり鬼畜だよな。冒頭のあれなんて、婦女暴行だろ。ケイト・ベッキンセイルをあんな扱いできるとか、かなり羨ましいぞ(鬼畜発言)。
ちなみにケイトはあれ、精神病なんだろうか。男に触れられるのが嫌なのは、過去のトラウマみたいのがあるからで、それによってパニック状態になっちゃうみたいだけど、単なる心の病にも感じる。というか、心の病が精神病なのか。
あと、主人公が精神病者のボスを心変わりさせるあのシーン。あれは治療をしてやったのだろうか? あのボスもかなり変人だが、言っていることは首尾一貫しているし、普通の人間に見える。で、主人公の治療によって廃人になっちゃうという(笑)。
いろいろ考えさせられますな
感心したのは、あのボスの精神病者に対する考え方だ。精神病を治すってのは、普通の人間に戻してやること。でもそれって、精神を病んでしまった人にとっては嬉しいんだろうか。何かのきっかけで心が壊れちゃった人は、現実から目を背けたいから心を閉ざすのであって、そのままほっといてあげるほうが幸せなのだ――というボスの考えは一理あると思う。
なのでこのボス、夢野久作の『ドグラ・マグラ』って小説でも描かれてたと思うけど、あの病院を精神病者たちが自由に活動できる場所として提供してやっているのである。
現実の精神病者が院の中に隔離されて、世間の人たちの目に触れないようにしている現代のシステムと比較すると、なかなか考えさせる。確かに、犯罪を犯した精神病者を好きにさせていいのかって言われたらそうではないんだけども、健常者の目に触れない場所に病人をおしこめている社会って、健全と言えるんだろうか、とは思うのである。
この記事の欄で紹介するのはどうかとも思うが、いい作品です↓
精神世界の描写がすごいサイコスリラー↓
ぶっ飛んだ女性が観たいならこれ↓
コメント
精神を病んだ人は元に戻してほしいと思っているか
ほっといてほしいのではないか?のくだりで夏目漱石の行人を思い出しました。
主人公が同じこと言ってます。
読んだ当時とても考えせられました。
永遠のテーマですね。
同じようにボケた老人はボケたままの方が幸せなんじゃないか?に繋がるんですが
ひとの心理はどこまでわかったほうがいいのか、今でもわかりません。
漱石の「行人」は読んだことないですが、そういう描写があるんですね。個人的には相手に自己意識があるかが大事だと思っています。でも、たとえば痴呆の人に自己意識があるかどうか、他人である自分には、確かめようがない。自分の身内に痴呆になってしまった人が過去にいましたけど、その人が自分の存在をどう感じているか、それとも何も感じていないかは、さっぱりわかりませんでした。会話が成り立たない他者というのは、こちらでレッテルを貼ることでしか判断できないものかもしれないと、そのときは思いました。うしろの魔太郎さん、コメントありがとうございました。