セル
楽しく娯楽として映画を観て、鑑賞後はいい気分で眠りたい――というような人は、観ないほうがいいと思います。消化不良になります(笑)。前半はこの作品がどういう話だったのかを、後半はこの手の作品が示唆しているものは何なのかという話。ネタバレあり。
―2017年 米 98分―
解説とあらすじ
解説:スティーヴン・キングが自ら脚本を担当して自作を映画化したホラー。ある日突然、携帯電話で話していた人々が凶暴化。周囲の人間を襲い始める。コミック作家のクレイはパニック状態に陥った街を脱出し、別居中の妻子がいるニューハンプシャーを目指すが……。「2012」のジョン・キューザックが製作総指揮と主演を兼任。監督は「パラノーマル・アクティビティ2」のトッド・ウィリアムズ。(KINENOTE)
あらすじ:ボストンの空港。コミック作家のクレイ・リデル(ジョン・キューザック)は、携帯電話で別居中の妻シャロンと通話していた。自作のグラフィックノベル『闇夜の旅人』のゲーム化権が売れた嬉しさもあり、息子のジョニーに会えないかと懇願していた最中、バッテリー切れに。やむなく公衆電話でかけ直していたところ、携帯を使う周囲の人々に異変が起こる。頭を抱えて小刻みに震えた後、口から泡を吹きながら、携帯を持っていない人々を襲い始めたのだ。ナイフを持った料理人がクレイに襲い掛かり、携帯で警察に通報しようとした女性も暴徒と化す……。パニック状態の空港から地下鉄構内まで逃げたクレイは、車掌のトム・マッコート(サミュエル・L・ジャクソン)と出会い、地上への脱出に成功。やがて2人はクレイのアパートに辿り着くが、そこでは階上に住む17歳の少女アリス(イザベル・ファーマン)が、“奴ら”と化した母親を殺害していた。“奴ら”に占拠されたボストンから、シャロンとジョニーが住む北へ向かう3人。その途中、昼は鳥の群れのように集い、夜は思考停止する“奴ら”の生態が次第に明らかになる。彼らをひとつにしているのは、何者かが発する“パルス”だった。その後、寄宿舎ガイテン・アカデミーに辿り着いた一行は、“奴ら”の生態を研究するアーダイ校長(ステイシー・キーチ)と生徒のジョーダン(オーウェン・ティーグ)に出会う。その話によると、“奴ら”は凄まじい勢いで進化し続けているという。競技場で寝ている“奴ら”に火を放ち、一網打尽にするクレイたち。新たにジョーダンを加え、再び北へ向かった4人はある日、同じタイミングで赤いパーカーのフードを被った長髪の男に襲われる悪夢を見る。それは、『闇夜の旅人』に登場し、終末を予言するキャラクターだった。果たして、世界は“奴ら”に侵略されてしまうのか?辿り着いた先に待ち受ける恐るべき真実とは……?(KINENOTE)
予告とキャスト・スタッフ
(シネママニエラ)
監督:トッド・ウィリアムズ
脚本・原作:スティーヴン・キング
原作 スティーヴン・キング
製作総指揮:ジョン・キューザック
出演:ジョン・キューザック/サミュエル・L・ジャクソン/イザベル・ファーマン
これって亜流のゾンビ映画だよね
本作はスティーヴン・キング原作・脚本のスリラーパニックホラーです。ジョン・キューザックとサミュエル・L・ジャクソン主演てことで『1408号室』みたいなどうでもいい映画なんだろうなと思って借りたら、本当にどうでもいい映画でした。
何も知らずに借りて観たら、人類が電波によってゾンビにさせられちゃう内容だった。ゾンビというふうには表現されてないけど、まぁ亜流のゾンビ映画だよね。
序盤はすげぇよかった!
序盤の展開にはかなりワクワクさせられた。これは期待が高まるっ! と思って観続けたら、序盤以降は尻すぼみな残念作品。人類が人為的というか、人間のつくりだした技術によって進化というか変異する内容だ。で、別の何かに変わってしまった人類は固有の存在ではなく個体の区別のない全体になっており、それらの存在が生きのびた主人公たちに襲いかかる。
本当に序盤は期待を持たせる内容だよね。人々が凶暴化してゾンビみたいになる感染源は電波。電話をかけている人が感染してしまうのである。感染源は物語を追っていくうちに何となくわかる。
進化する電波感染者たち
電波を受けて凶暴化した生命体はゾンビではないので噛まれてもゾンビみたくはならない。死んじゃう。
彼らは夜になると活動を停止するのだが、劇中の短い時間の中でどんどんと進化をしているらしい。
物語中に現れる学校の校長先生がそんな解説をしてくれる。なんであんたそんなに詳しいんだよ。と突っ込みを入れたいが、それはまあいい。
いずれにしても主人公のジョン・キューザック(クレイ)とサミュエル(トム)は、先々で生き残りと出会い少しずつ情報を仕入れ、仲間を犠牲にしつつラストの展開に向かうのだ。
ラストは妄想でしょ。ていうか、全部妄想
で、そのラスト。あれ何なんだろうね。最終的にはクレイが息子を見つけるんだけども、感染者になっているような描写だった。そう考えると息子と線路を歩いてトムが待つカナダへ向かっているシーンは、夢というか願望だろうね。
逆に線路のほうを現実だと捉えると、感染者になって歩いているラストの意味がわからない。では、何だったのか。…なんだったんだろうか(笑)。
たぶんこの話は夢オチなんだろう。それを示唆するのはクレイがコミック作家で、その中の登場人物が黒幕みたいに描かれていることだ。
つまりこの話は、そうした描写はないものの、浮気をして妻子と離れて暮らさざるを得ない男が、仕事で一発当てたことを機に家族を再生させようとする妄想をし、なぜかその妄想に自分の創作した悪人が現れてうまくいかなかった――もしくは、妄想の中ではうまくできた。という二つの道を示した、妄想映画だったのである(笑)。
妄想じゃないとしたら別の道を行ったトム一行が、もう少し描写されるもんではないだろうか。違うかな? ともかく、それが妄想だろうがリアルだろうがどうでもいい内容の作品でした。作品の話から派生してこの記事はもう少し続きます。
みんなが同じ存在になる話って何を言いたいの?
このブログで類似作品はいくつか紹介しているけども、本作のような個体が集合して1つの全体的存在になる内容の作品が繰り返し世に出るのは、人間の集合的無意識が一つの生命体、一つの存在になりたがっている表れなのではないだろうか。
これらの作品に総じて言えるのは、一つの生命体になった人類は、人類の尺度で言う進化を遂げた存在になっているように見える。
だが、主人公たちは今までの自分たちとして生きていたいから逃げるし抗うし、肉親たちには元の人間のままでいてほしいと必死に行方を捜し続けるわけだ。
人間は変化に対応する生き物とか何とか偉そうに言われるけど、実は変化はそんなに欲していないんだよね。自分が変わることってあんまり受け入れられないのだ。だから、こうした作品をハラハラドキドキしながら観られる。
急激な変化は受け入れられない。しかし、そうでなければ…?
でも本当は、我々は日々を当たり前のように過ごしている中で、今作のような別の生き物に日々変わっていっているのだ。自分たちが気づかぬ間に。それは歴史の中で変わりゆく倫理観でもあるだろうし、生物的な身体的変化でもあるだろう。
今のまま変わらぬ存在、変わらぬ毎日を過ごしたいと思いつつも、自己の欲望や、人類としての欲望やなんやかやによって、ゆるやかに別の存在に変えられている。それが己1人では生きられない世の中のしきたりみたいなもんだ。
つまり、自分が望まなくてもわけのわからん他人と共生せざるを得ない人間は、社会生活送る中で、自分を変えてしまうような何かをしているということ。こうした作品を鑑賞して俺が思うのは、そういうことだ。
そして、人間は別の存在に変えられた暁には、そうした存在に変えられたことに気付けないのである。何を言っているのかわからないと思うけど、今現在も我々はまさに、望むと望まざるに関わらず、そうした文明社会の中に生きている。
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