狼は天使の匂い
―1973年製作 米 122分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:カナダを舞台に、孤独なアウト・サイダーたちの戦いを描く。製作はセルジュ・シルベルマン、監督は「パリは霧にぬれて」のルネ・クルマン、デイヴィッド・グッディス原作の「暗い金曜日」をセバスチャン・ジャプリゾが脚色。撮影はエドモンド・リチャード。音楽はフランシス・レイ。編集はロジャー・ドワイアが各々担当。出演はロバート・ライアン、ジャン=ルイ・トランティニヤン、レア・マッサリ、アルド・レイ、ティサ・ファロー、ジャン・ガバン、ナディーヌ・ナボコフ、アンドレ・ローレンスなど。(KINENOTE)
あらすじ:トニー(ジャン・ルイ・トレンティニヤン)の逃亡生活は、操縦していたヘリコプターがジプシーの群れの中に墜落し、大勢のジプシーの子供を死なせてしまったことから始まる。ジプシーのかしら(アンドレ・ローレンス)は復讐を誓った。そのためにトニーはパリにいられなくなり、ニューヨーク、さらにカナダのモントリオールに逃げた。しかし執拗なジプシーの追跡のために逃げ場を失い、折から開催中の万国博覧会のアメリカ館に身を潜めた。そこで2人組による殺人事件を目撃したことから一味に捕らえられ、ある島に連れ去られた。島に着くとトニーは、一味のボス、チャーリー(ロバート・ライアン)に引き合わされた。彼の他にも、その情婦シュガー(レア・マッサリ)、マットン(アルド・レイ)、リッツィオ(ジャン・ガバン)、パウルその妹ペッパー(ティサ・ファロー)がいた。チャーリーは、殺されたレナが持っていた1万5千ドルの行方を教えろと迫ったが、トニーは口を割らなかった。この島から逃げるためには橋を渡らなければならず、その橋は1つしかない。うまく渡ったとしても、そこにはジプシーたちが彼を待ち構えているに違いない。しょせん逃げられないのだ。翌日、チャーリーたちは泥棒を働きに出かけた。一方、トニーは月日がたつに従ってチャーリーに親しみを感じ始めていた。シュガーとも親しくなった。やがてチャーリーが計画している大仕事に誘われ、仲間になることを承知した。一味の大仕事とは次のようなことだった。マッカーシーというギャングの大親分が近く法廷で裁かれることになっているが、彼を有罪にする唯1人の証人は頭の弱い女の子で、目下モントリオールの病院に厳重な警備つきでかくまわれている。チャーリー一味はこの証人を誘拐してマッカーシーに引き渡し、礼金100万ドルをせしめようというものだった。病院の隣のコンサート・ホールを足がかりにして病院に入るという計画は完璧のように思われた。決行の日の夜、一味はタキシードに身をつつみ、コンサート・ホールに現われた。だが、マットンの顔を知っていた鼓笛隊の女の子(ナディーヌ・ナボコフ)が警察に通報した。そんなこととは知らない1味は、ホールの地下室から隣のビルに入った。この間に警官隊が駆けつけ、ボックスにいたシュガーを逮捕した。チャーリーがトニーを引っぱりこんでやった仕事はすべて芝居だった。生き証人として入院していた精神薄弱児はとうに死んでいたので、チャーリーはペッパーを替玉として使ったのである。マッカーシーがチャーリーに計られたと知ったときは遅かった。チャーリー一味が隠し持っていた拳銃は一斉に火を吹き、マッカーシー一味は次々に倒されて入った。だが、ペッパーとともに島を抜け出したトニーを除いて、一味は警察に包囲された。銃撃戦の末、残るはチャーリーだけとなった。一方、トニーは一旦逃亡を決意したものの、ペッパーを逃がすと、チャーリーと運命をともにするため、自分だけ再び島へ引き返した。(KINENOTE)
監督:ルネ・クレマン
脚本:セバスチャン・ジャプリゾ
出演:ロバート・ライアン/ジャン・ルイ・トランティニャン/レア・マッサリ/アルド・レイ/ティサ・ファロー/ジャン・ガヴァン/ナディーヌ・ナビコフ/アンドレ・ローレンス
ネタバレ感想
20年ほど昔、ジョニートー監督の存在を知った。彼はこの作品にけっこうな影響を受けているらしいことを知り、いつか鑑賞してみたいと思いつつ、DVDが高かったりレンタルにおいてなかったりで放置。最近になっても配信サイトで観られるようなこともなくそのままになってて、今回、なんとなくDVDを探してみたら安く売ってたのでようやく鑑賞した。
で、その感想としては、さほど面白くもなかったかな。やっぱり生まれた年が70年代後半だったため、自然と触れる機会が多かったのは80年代以降の作品なこともあるのか、こうした古い作品は、物語の流れがすごくゆっくりに感じたり、盛り上がりに欠けたりしてるように思えちゃう部分があるのだ。
もちろん、そうではない作品もたくさんあるんだけど、本作に対してはそう感じた。ただ、ジョニートーが影響を受けたというのはものすごくよく分る内容で、映画評論家の町山智浩氏の解説なんかを聴くに、その辺についてはより納得させられた。
その解説も踏まえて言うと、この作品の邦題は作品全体のテーマを的確にとらえているし、冒頭の少年たちのビー玉遊びも結末を迎えてみると、なぜああしたシーンで始まるのかがわかる。そして、それぞれの人物たちが死に間際に少年期の思い出がフラッシュバックすることも。
要するに、男ってのはいつまでも子どもなのである。子どものように遊びたいのである。もちろん全員がそういうわけではないが、分別のある大人になるのではなく、子どもの頃のように無邪気に、自分のやりたいことをする。それが悪いことであろうが、いたずらであろうが、何だろうが、そのように生きていたいのだ。
町山氏は特に、アウトロー的な生き方をする人にはその傾向が強いというようなことを指摘していた。確かにそうだ。俺はバイオレンス作品や犯罪組織に属するアウトローな人間の物語が好きで、そうした映画を好んで観るけども、そういう指摘をされてみると、さもありなんと思わされる。そして自分自身の中にも、善悪の基準にとらわれすぎずに、己の嗜好に従って行動するような生き方に憧憬を覚える。
この物語の登場人物たち、とくにチャーリーとトニーは、人間的にさほど尊敬できるような人物ではないが、二人の中には友情みたいなものが育まれており、最後のシーンなどは、少年の頃にした、ビー玉遊びをし続けることで死を迎えるのである。つまり、遊び続けたかったのである。
狼たちは常に、子どものように無垢な、天使の匂いがしている。
てなことで、自分自身、アウトローたちの登場する映画に対しては、ちょっとした持論があるけども、その考えに捕捉を与えてくれるような示唆的な作品であった。それは、町山氏の解説によって得られた部分も大きい。興味のある方は、動画がネットに落ちてるので、参考にしてみてください。
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