デッド・ドント・ダイ
―2020年公開 米 104分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:第72回カンヌ国際映画祭のオープニングを飾ったジム・ジャームッシュによるゾンビ・コメディ。アメリカの田舎町で、次々と墓場から死者が蘇る事態が発生。3人だけの警察署で勤務するピーターソン巡査や葬儀屋のゼルダが退治するが、ゾンビは増殖していく。出演は、「ゴーストバスターズ」のビル・マーレイ、「パターソン」のアダム・ドライバー、「サスペリア」のティルダ・スウィントン、「荒野にて」のクロエ・セヴィニー。(KINENOTE)
あらすじ:アメリカの田舎町センターヴィル。3人だけの警察署で勤務するロバートソン署長(ビル・マーレイ)、ピーターソン巡査(アダム・ドライバー)とモリソン巡査(クロエ・セヴィニー)は、ダイナーでの変死事件を皮切りに、次々と墓場から死者が蘇る事態に巻き込まれる。町に溢れるゾンビたちは、生前の活動に引き寄せられているようだった。ピーターソン巡査はナタで次々とゾンビの首を切り落とし、葬儀屋のゼルダ(ティルダ・スウィントン)も胴着姿で日本刀を携え、ゾンビたちを斬りまくる。しかし、時間を追うごとにゾンビたちは増殖していく……。(KINENOTE)
監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
出演:ビル・マーレイ/アダム・ドライバー/ティルダ・スウィントン/クロエ・セヴィニー/スティーヴ・ブシェミ/ダニー・グローヴァー/イギー・ポップ/セレーナ・ゴメス/トム・ウェイツ/RZA
ネタバレ感想
ジムジャームッシュ作品への苦手意識(どうでもいい前置き)
アマゾンプライムで見つけて鑑賞。ジムジャームッシュ監督って、なんかオシャレそうな作品を創っている印象。これまでに鑑賞したことあるのって20代くらいの頃に観た、『ゴーストドック』くらいだ。
内容はよく覚えてないんだけど、とてもつまらなかったなぁという印象だけが残ってる。ただ、一般的な評価はそれなりに高かったみたいなので、自分の好みと合わないんだろうなって思い、なんとなく苦手意識が芽生えてそれ以来、同監督の作品を鑑賞する機会はずっとなかった。
じゃあなんでそんな監督の作品を今回鑑賞したかっていうと、ゾンビ映画だから。オシャレそうな映画を撮るジャームッシュが、どんなゾンビ映画を創ったのかについて、1作しか鑑賞したことない癖に、興味を持ったのである。あと、ゾンビ映画がけっこう好きだということも一因。
で、アマプラでタダで観られるとなったら、それは観るでしょ。ていうことで鑑賞したのだーーというどうでもいい前置き。
ゾンビコメディなんだけど…
てなことでネタバレ感想。ともかくもう、退屈な映画であった(笑)。コメディ作品ってことらしいんだが、俺には作品内のシュールな表現のおもしろさがわからんかったので、笑いどころは一つもなかった。
そして、これは意図的なものなんだろうけど、物語展開が起伏に乏しく、非常に淡々としていて、役者たちもオーバーアクションにならずに、抑えた演技をしてるように見える。つまり、感情表現がさほど大きくない。
であるから、ゾンビ騒ぎが起こっているのに、登場人物たちは、それにけっこう冷静に対処していて、結果的に、あきらめの境地にあるような感じなのか、さほど抵抗もせずに次から次へとゾンビの犠牲になっていってるように見えた。
それは主人公と思しきクリフ(ビルマーレイ)とロニー(アダムドライバー)も一緒。物語終盤でクリフが、騒ぎが起きてから終始冷静で、淡々と行動をしているロニーを責めるシーンがあるけども、俺から見ればクリフもずっとそんな感じだったように見えた。
だから、あのセリフの意味がよくわからない。物語通してそれなりに感情表現があったのは、彼らと同じ警察官の女性くらいなもんだ。彼女だけが、泣いたり喚いたり、絶望して自殺的な行動を取ってたからね。あれも何か意味があるんだろう。
意味深な日本刀オバサンとUFOの謎とメタ発言ギャグ
物語のキーマンだと思われた葬儀屋の謎の日本刀オバサンも、終盤で何をしてくれるかと思ったら、UFOに連れ去られるのを待ってたという、とんでもないギャグ的展開で劇中から姿を消しちゃうので、鑑賞してる人間も、クリフたちと同じく、何が何だかわけがわからない状態になる。
わけがわからないと言えば、冒頭のほうの、ロニーが車の中で聞いている音楽が「テーマ曲」であると述べるクリフとの会話、そして終盤の、「台本」に関する会話などは完全なメタ発言で、あれも恐らくギャグなんだろうとは思うんだが、そう考えるに、やっぱこれはコメディ映画ってことなんだな。であるから、そういう意味不明さを笑えばいいのであるんだが、これが俺には笑えなかったのである。
そもそも、何でゾンビが墓の中から出てきたのかも、よくわかんなくて、どっかの大企業が大規模な工事をしたら、地軸がズレたことに原因があるーーみたいな荒唐無稽な説明があったけども、それとゾンビに何の関係があるのかについては触れられない。ついでに、この地軸がズレる現象により、日照時間が変わったり、犬猫など動物の姿が消えたりなど、そうした事件の原因についても、詳しく触れらることはない。てことは、これもギャグなのだろう。
ラストで知らされる消費社会への風刺
ということで、なんだかわからないままに、淡々とゾンビの餌食になっていく登場人物たちの姿を延々と見せられ続けて退屈なこの作品、最後の最後、クリフとロニーが開き直ってゾンビの大群と戦うことになったときに、セリフで、この作品におけるゾンビとは何なのかについて説明がされるのだ。
それを基に解釈するなら、この作品のゾンビは、現代社会を生きる我々人間たちの比喩なんである。ゾンビとして蘇った死体たちは、生前に執着してたものを求める性質があるようで、あるゾンビにとってはそれが「コーヒー」であり、または「ギター」であり、何らかの物質か、あるいは金によって消費される何か、例えば「Wi-Fi」とかなのである。
つまりそうした物質や消費に執着した人間の姿を風刺しているのが、あのゾンビなのだ。そして、登場人物たちは、物欲や消費欲の塊であるゾンビたちの襲撃に抗えず、自分もゾンビにされていく。これは誰もが、資本主義社会を生きる中で、金銭によって価値を消費する活動をすることに、知らぬ間に囚われていっていることを意味しているのだろう。
そうした世界から唯一抜け出せているのが、森に暮らす男、ボブである。彼は森の中から、ゾンビ世界をのぞきこんでいるだけで、ゾンビに襲われることがない。それは、彼だけが異なる視点と異なる価値観で作中世界を生きているからだ。
と、考えてみるに、ボブの生き方を否定せずに、ボブに鶏を盗まれたと苦情を訴えてきたフランクのほうに否定的だったクリフも、ボブと同じような感覚で生きることができた人物だったのかもしれないと思わされる。
作品中のゾンビ世界を生き残るには、犬や猫のような動物的生き方をするか、葬儀屋女のように、宇宙人的な存在でいるか(笑)、ボブのように消費社会から抜け出すしかないのだ。そして、その事実を鑑賞者にも、突きつけているという考え方もできる。
ということで、資本主義世界に異を唱える内容には非常に共感したものの、そこで描かれている内容そのものは楽しめないという、なんとも悲しい鑑賞体験でありましたん。
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