リアリティ・バイツ
たま~に観たくなる青春恋愛映画。アメリカのジェネレーションXと呼ばれる1960~70年代生まれの若者たちの等身大の姿を描いた作品…らしい。タイトルについての表現は薄く、後半は、ほぼ恋愛映画。それがダメなわけじゃないけど、物足りなくもある。ネタバレあり。
―1994年公開 米 99分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:90年代に生きる、いわゆる″ジェネレーションX″の若者たちが社会の様々な現実に向き合う中で、本当に探し求めていたものに出会うまでを綴った青春映画。スタッフ、キャストとも同世代の若者たちが多く参加し、等身大の青春群像を描き上げている。MTV感覚と映画的センスを融合させた演出も見もの。監督・主演は米のTV界で活躍し、これが監督デビューとなる28歳の新鋭ベン・スティラー。製作は「ジュニア」などで俳優として活躍するダニー・デヴィートと、マイケル・シャンバーグの共同。脚本は、本作がデビューのヘレン・チャイルドレス、撮影はエマニュエル・ルベスキ。音楽はオリジナル・スコアをカール・ウォリンガーが書き、76年の全米一位のヒット曲となった、ザ・ナックの『マイ・シャローナ』を筆頭に、ビッグ・マウンテン、U2、レニー・クラヴィッツ、ダイナソーJr 、リサ・ロエブ&ナイン・ストーリーズなどの挿入曲が全編を彩る。出演は「愛と精霊の家」のウィノナ・ライダー、「生きてこそ」のイーサン・ホークほか。(KINENOTE)
あらすじ:大学の卒業式で総代としてスピーチしたリレイナ(ウィノナ・ライダー)はその夜、男友達のトロイ(イーサン・ホーク)と夕食を共にする。彼女の離婚した両親(ジョー・ドン・ベイカー、スーザン・ノーフリート)がそれぞれの新しいパートナーと同席したため、晴れの日のはずが険悪なムードで終わる。TV局に就職したリレイナは、ルーティンワークに追われる日々にうんざりする。ルームメイトの親友ヴィッキー(ジャニーヌ・ギャロファロ)とドライブ中に衝突事故に遭った彼女は、相手がMTV編成局長のマイケル(ベン・スティラー)と知るや、ほのかに運命的な出会いを感じる。やがて、働きもせずバンド活動に明け暮れているトロイが仲間のサミー(スティーヴ・ザーン)を連れて、強引に4人で同居生活を始めた。~中略~ マイケルとトロイは、リレイナの前で対立するが、リレイナを置いて、トロイは父親の葬儀に赴くため、街を出る。リレイナはトロイを追って行こうとしたが、既に遅かった。しかし数日後、放心するリレイナの前に、今までとは全く違って正装した姿のトロイが現われ、リレイナを迎え入れた。(KINENOTE)
監督:ベン・スティラー
出演:ウィノナ・ライダー/イーサン・ホーク/ジャニーヌ・ギャロファロ/スティーヴ・ザーン/ベン・スティラー
ネタバレ感想
ニートの頃、トロイに感情移入した
アメリカのジェネレーションXと呼ばれる1960~70年代生まれの若者たちの、等身大の姿を描いた作品…らしい。いきなりネタバレすると、いろいろあって仕事に定着できていない23歳くらいの女性が、一応確固たる考えはあるけども収入はないニートの、こちらも23歳くらいの男性と恋仲になって劇終する物語。
俺が初めてこの映画を鑑賞したのは、25歳くらいのニートの頃だった。なので、イーサン・ホークが演じるトロイに非常に感情移入したのを覚えている。トロイはまぁ、イーサン・ホークが演じているわけだからイケメンなのであって、あれだけの数の女性と一夜限りの付き合いができるのはよくわかる。もちろん俺は、その部分には自分を投影できないで観ていたが(笑)。
ではどこに感情移入してたかというと、彼がニートっぽい生き方をしていることに、それなりの理由がある部分。彼の皮肉屋っぽい言動や、好きな女性=ウィノナライダー扮するリレイナに対する態度などは子どもみたいな奴だなとイライラしたもんだが、彼の人生観みたいのはセリフから読み取る限り、けっこう共感していた記憶がある。だから感情移入していたわけだ。
タイトルに惹かれて鑑賞したが…
当時、たまたまテレビのBSかなんかで放映されてて、「リアリティ・バイツ」というタイトルを「現実は厳しい」とかそんな感じのニュアンスで受け取った俺は、内容を観てみたくなった。なぜなら自ら甘んじてではあるものの、ニートという境遇にいたので。
で、鑑賞したところ、途中からこの作品が恋愛映画であったことに気付いた。別に恋愛映画でもかまわないんだけど、現実の厳しさに関する話はどこにいってしまったのだろうかと思ったのである。後半部分からトロイとリレイナの関係が描かれるものの、この若者たちが社会といかに対峙していくのかという描写がなくなっていくからだ。
今回、数年ぶりに鑑賞してみてあらためて思ったのは、トロイはまだしも、主人公のリレイナの生活ってラストで何も変わらないどころか、職なしニートになって恋人ができただけじゃんと思って、この映画はいったい何なのかが余計にわからなくなった(笑)。やはり、タイトルはおいておいての、単なる恋愛映画なのか?
トロイは”恋して”いたのか、”愛して”いたのか
あらためて鑑賞してみるに、リレイナって容姿以外、特に魅力がない人だよね。自分に余裕がなくなると友人に酷いこと言うし、こんなのとよくみんな同居できたもんだと思っちゃう。まぁ他の奴らも大概なので同じ穴の狢とも言えるけども(笑)。
ともかく、俺はウィノナライダーの容姿は別に何とも思わないので、余計にそう思ってまうのだ。しかしトロイは、彼女を「愛している」そうだ。今まで女性に対してそういう感情になったことはないーーというようなことも言っていた。マジか。そんなに好きなんだ。でも、どこがいいんだろうか。よくわからん。よくわからんけどさ、これって「愛している」んじゃなくて、どっちかというとまだ、「恋してる」段階なんだと思うな。
だからトロイはいちいち、リレイナとマイケルの関係に嫉妬しちゃうし、リレイナの本当の気持ちが気になって仕方ないわけだし、皮肉屋だから本心にはないこと言っちゃったりするのである。トロイとリレイナにはそれなりにこれまでの付き合いがあるから、お互いの嫌な部分は知っていて、それでも好きってわけだから「愛している」という表現も間違いではないと思うものの、やっぱり俺は、トロイはまだ恋している段階なんじゃないかねと思ったのである。
恋と愛の違い
恋と愛の違いについては、個人的な考えとしては、恋は本質的に相手がいなくて、自分のつくりあげた理想的な相手を見ている時期。愛はお互いに時間を共有しあう中で、ダメなところとかもわかったうえで、恋人でもあり、友達でもあり、運命共同体みたいな感じになっている期間とでも言おうか。
まぁでも、トロイはリレイナに2度目の告白するときに、一緒にいれば嫌な部分も見えてくるし、喧嘩もするだろうが、それでも彼女と一緒にいるほうがいいーーみたいなことをいう。そして、これまでにそういう感情になった女性はいなかったと。
て、考えると愛情なんかなと思わなくもないんだけど、これまでにそういう感情になったことがないーーというんだから、過去に恋をしたことがなかったんだと思うな、やっぱり。だから愛していると恋しているの違いがようわかっていないのではないか。というか、こんな俺の戯言なんて、どうでもいいですよね(笑)。ということでこの話はここまで。
トロイは厭世的な人生観の持ち主
トロイは、哲学を学んでいたことやその言動から見るに、人生に大きな期待をしていない人だ。だから、「人生にはコーヒーとタバコがあればいい。あとはお喋り」的なことを言うの。何かを成し遂げるとか、そういうものよりも、日々の暮らしの中にある楽しみのほうが彼にとっては重要らしい。将来というものにあまり期待がないのだ。
人生にも期待してないし、他者にも期待していないのだ。だから彼はこれまで、女性との関係を一夜限り以上のものにしてこなかったし、したくもなかったのである。なぜなら、相手との関係をつくることに期待していないし、どうでもいいことだからだ。この辺の、彼の見せる厭世的な印象に、当時の俺は感情移入したのである。ただそれは、理屈のうえで共感するんであって、自分が彼のような生き方を実践したいかどうかは別。
マイケルがトロイを評して、「妥協せずに生きている」という。しかし、「自分はそうできないし、実社会は厳しい」と。俺はトロイが妥協せずに生きているようには思えないし、実社会の厳しさを知ってて妥協をしないでいるようには見えなかった。トロイに感情移入して鑑賞した俺から見ると、彼はある部分で、社会と向き合わずに逃げている。そして、実社会とは違う場に生きることに妥協している。ーーこれは単なる屁理屈であるが、一面的には真実である。
結局、現実の厳しさについては?
この作品が尻切れっぽい恋愛映画的な印象しか与えられないのは(恋愛映画が悪いというわけではない)、結局はトロイがどのように妥協せずに生きていくのかを、示せていないからであり、リレイナに至っては、短期間の間に社会の洗礼を浴びて、心が折れちゃったままトロイとの恋に走っちまってるからである。
これってどちらも言いようによっては、現実逃避ではないか。現実の厳しさに対して恋仲になった二人がどう生きるかまでを見せてくれたら、もっといい作品だったと思うんだけどな。
ちなみに、映画評論家の町山智浩さんがこの映画の解説を通じて、ウィノナ・ライダーがどうして大女優になれなかったのかを紹介してて、その話がとても納得できて面白いです。YouTubeで検索すれば出てくるので、興味がある方はどうぞ。
コメント