激怒 RAGEAHOLIC (2021)
暴力刑事の深間が精神治療のために海外で薬漬けになって帰国してみたら、馴染みのある街がディストピアになっていることに気付く。正しい顔をして暴力的な行為を繰り返す住人や同僚たちを目の当りにする日々の中で、怒りが蓄積していき、深間はついに大激怒することに。個人は組織的な暴力に対し、怒っていいし、怒るべきだと呼びかけ、タイトル通り激怒している高橋ヨシキ氏の初長編監督作品。ネタバレあり。
―2022年公開 日 100分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:映画評論家、アート・ディレクターとして様々に活躍する高橋ヨシキが企画し、オリジナル脚本で長編初監督に挑んだバイオレンス・エンターテインメント。激怒すると暴力が止まらない中年刑事の主人公・深間に「ローリング」「犯る男」の川瀬陽太が扮し、唯一無二のパワフルなダークヒーローを生み出した。共演は「横須賀奇譚」の小林竜樹、「SR サイタマノラッパー」シリーズの奥野瑛太。「ローリング」「あのこは貴族」の渡邊琢磨と、三島賞作家で音楽家の中原昌也がサウンドトラックを担当。重低音とオーケストレーションが交錯するユニークな音楽が脳髄を直撃する。(KINENOTE)
あらすじ:中年の刑事・深間は、いったん激怒すると見境なく暴力を振るってしまうという悪癖があった。かつてはその強引な手法により街から暴力団を一掃した功労者と讃えられた深間だったが、度重なる不祥事に加え、大立ち回りで死者まで出してしまったことの責任を問われ、治療のため海外の医療機関へと送られることになる。数年後、治療半ばにして日本に呼び戻された深間は、見知った街の雰囲気が一変してしまったことに気づく。行きつけだった猥雑な店はなくなり、親しい飲み仲間や、面倒をみていた不良たちの姿もない。さらに、町内会のメンバーで結成された自警団が高圧的な「パトロール」を繰り返しているのだ。一体、この街に何が起きているのか? 「安全・安心なまち」の裏に隠された真実に気づいたとき、深間の中に久しく忘れていた怒りの炎がゆらめき始める……。(KINENOTE)
監督・脚本:高橋ヨシキ
音楽:渡邊琢磨/中原昌也
出演:川瀬陽太/彩木あや/小林竜樹/奥野瑛太/和田光沙/松浦祐也/森羅万象
ネタバレ感想
映画評論家、アートディレクター、脚本家、サタニストとかいろいろな肩書のある高橋ヨシキ氏の初長編監督作品。高橋氏のことは監督としてというよりは、映画について語ってる博識な人ってな印象が強く、ついでに彼によってサタニストなる立場を知った俺としては、それなりに思い入れのある人物だ。
であるからもちろん、全てではないが著作もいくつか読んでいる。サタニストがいかなる存在かというのは、『サタニック人生相談』を読めば大体わかる。
てなこともあって、この作品が公開されるのはけっこう心待ちにしてて、その割には観るのが遅くなってたんだけど、先日ようやく劇場に足を運んで鑑賞できた。当然、鑑賞前にパンフレットも購入した。
よく考えてみると、俺は映画監督のパーソナルな部分というか、人間性をそれなりに知ったうえで作品鑑賞するケースってほとんどなくて、むしろ今回が初体験なんではないかということに気付いた。
じゃあそんな自分が鑑賞し終えての感想はどうだったのかというと、激賞するほどの内容には感じられず、無難というか、期待ほどではなかったが、面白くはあったかなぁというもの。
高橋氏は「映画はタイトルがその中身を表していなければならない!」とよく言ってて、今作はまさにその名の通りの内容。
元暴力刑事の深間は薬の力で怒りを抑制していたんだけど、愛着のある富士見町という街や知人たちが理不尽にさらされる日々の中で、本来の暴力性を解放して、正義面した人間たちや権力者たちをぶちのめしていく話。
パンフレットの中でライターのてらさわホーク氏が、「深間は最初、権力組織の中で暴力をふるう人間であったが、組織の理論でその暴力性を裁かれることになり、薬の力で本来の力を抑え込むことを強いられるわけだが、そんな彼が終盤では、組織や権力の暴力に抗うために、個人として怒る力を獲得していくーーてな解説をしていて、まさにそうだなぁという感じの内容。
要するに、個人としての人間は、組織や権力の理不尽な、善性を押し付けてくるような悪に対して、全力で怒るべきだとこの作品は言っているのであろう。いやむしろ、あまりにも酷いことに対しては、怒るべきなのだ。怒るべきであると言っている。
この作品のディストピアはある地方都市と思われる富士見町という街だが、これは現在の日本をカリカチュアした姿だと受け止めることができるし、実際のリアルな世界も、この富士見町のようになっている部分は大いにある。であるから監督・高橋ヨシキ氏はその理不尽なことに対して、もっと怒っていい、怒るべきであると呼びかけているのだ。
しかし、怒ることができる人間がどれだけいるのかという問題もある。自分自身だって、もはやこの作品の町内会の人間のようになってしまっているかもしれない。無自覚に生きているうちに、すでに怒る力を削がれている可能性はある。怒りを表明することすら封じられ、知らぬまに洗脳されてしまっている危険性が、現実にあるのだ。まさにディストピア。
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