月に囚われた男
派手さや大きな展開のない地味な作品だけど、楽しめます。作品の話をしつつ、記憶とか他者について考えます。ネタバレしてます。
―2010年公開 イギリス 97分―
あと、この映画とお間違いなきよう↓
解説:デヴィッド・ボウイの息子、ダンカン・ジョーンズの監督デビュー作となるSFドラマ。近未来を舞台に、たった一人で月に赴任中の男が遭遇する奇妙な出来事を描く。主演は「フロスト×ニクソン」のサム・ロックウェル。ロボットの声で「ラスベガスをぶっつぶせ」のケヴィン・スペイシーが参加している。(KINENOTE)
あらすじ:近未来。地球のエネルギーは底をつき、新たな燃料源を38万キロ彼方の月で採掘することになった。“ルナ産業”の従業員サム・ベル(サム・ロックウェル)は燃料源採掘のため、たった一人で月に派遣される。会社との契約期間は3年。地球との直接通信は許されず、話し相手は一台の人口知能ロボット(声:ケヴィン・スペイシー)だけであった。孤独な任務が続く中、地球で彼の帰りを待つ妻と子供への思いがサムの心を支えていた。そして任務終了まで2週間を切ったある日、サムは自分と同じ顔をした人間に遭遇する。果たして単なる幻覚なのか……。やがて彼の周りで奇妙な出来事が起こり始める……。(KINENOTE)
監督:ダンカン・ジョーンズ
出演:サム・ロックウェル
出演(声):ケヴィン・スペイシー
当時、劇場へ観にいったのは自分と同じ人間が(主人公と同じ人間が2人以上)出てくる作品と知ったからだ。個人的にタイムループであったり、クローン的な存在が出てくる作品が大好物。なんでかについては、下記の記事に書いたような問題をはらんでいるから。
てことで、特に劇的な展開もなく淡々と進んで淡々と終わる映画である。登場してくる人間もほぼ1人だしね。そういう意味では、1人芝居みたいな映画であった。
作品の面白味はどこにあるのか
では、この作品の面白いところって何だろうか。けっこう早い段階で自分がクローンであることはわかっちゃうし、クローン、つまり他人であるもう1人の自分との対立が描かれるのかと言えばそうでもなく、どちらかというとお互いの固有性を認め合って、理解しあっている感じなのである。
だからやっぱり、劇的なことは起こらない。淡々とした作品なのである。ということで、何が面白く、この作品に自分がどうして惹きつけられたかと思案するに、それは以下のように、クローンを通じて、存在するとはどういうことなのかを考えさせてくれるからではなかろうか。
クローンとオリジナルの違いは寿命か
この映画に出てくる主人公も、その後に登場する同一人物2人も、全員クローンでありオリジナルではない。実はオリジナルは、すでに地球で暮らしていることがわかる。もしかしたら、もともとオリジナルは、月には行っていないのかもしれない。
どうやら主人公含むクローンたちは、月面で採掘? 作業をする3年間しか寿命が続かないらしい。それは主人公の衰弱振りを見ていると、なんとなくそうなのだろうと想像させられる。ただし、本人たちは物語の途中まで、自分はオリジナルと思っているわけだから、普通の人間と同じくらいの寿命があると信じている。
でも、本当は3年しかない。これは気の毒ではあるのだが、オリジナルの記憶があるために、彼はやっぱり、3年以上長く生きている感覚を持っているようだ。それを考慮に入れると、記憶さえ埋め込まれていれば、クローンでも自分の真に生きた年月以上に生きながらえてきた感覚を得られるということなのだろうか。
過ぎ去りし時は記憶の中の夢
よくよく考えてみれば、普通に毎日を暮らしている自分も、これまでの数十年を生きてきたと確信および実感せしめているのは、記憶による部分が多い。例えば身体的な劣化、つまり加齢による衰えで生きてきた日々の長さを感じることはある。でも、これも記憶があるからこそ実感できることとも言えるのではなかろうか。
記憶を頼りにして、過去、自分が生き続けてきたことを信じているのだとすれば、記憶がなければ過去はなく、生きてこなかったのと同じでもあり、過去なんてものは、記憶が見せる夢みたいなもんなのかもしれない。なんとも寂寥感を覚えさせる考えだが、そういうもんではなかろうか。
同じ人間も、全く別の存在であり、個性も気質も異なる
クローンであるからほぼ同じ人間なのかと思わせておいて、この作品の彼らは、それぞれに別の個性があるようだ。その別の個性とは、よくこのブログで書いている、存在としての特別さとは異なる、性格、性質的な個体差があるという意味だ。なんでそういうことが起きたかというと、それは彼らが別の存在ではありながらも、全く自分と同じ人間を客観的に眺め、しかもコミュニケーションをとり続けたことにあるのではないか。
彼らには子ども時代がないので、人格形成期がない。生まれた時点ですでにコピーされた性質を持つものとして誕生させられる。そして、通常であれば、接する相手は世話役のロボットしかいない。
つまり、個性の形成はその閉じた空間で行われており、他に比較する存在がないために、彼の個性はそのまま個性として当たり前のものとしてあり続け、三年後に消える。しかし、姿かたちを同じくするもう1人の別の存在が現れることで、実は同じ人間も他者同士として接する以上は、全く異なる他人としての顔を見せ出すということが、この作品を見ると理解できるのだ。
だからやっぱり、クローンだろうがなんだろうが、自分と同じ外見で、自分と同じ記憶を持ち、自分と同じ性格の人でも、単なる他者なのだ。自分以外の他者なのである。
であるからに、主人公にしてみれば他の自分に対して「主役は俺、お前は単なる脇役」と考えるはず。クローンの出てくる映画を見てわかるのは、同一人物だろうが他人であり、自分が世界の中心であるのだから、同一人物の他人は、単なる脇役なのであるということだ。
あのロボットも他者である
最後にもうひとつ、あのロボットはちょっと主人公側の肩持ちすぎだろうと思った。そこがあのロボットのよさなんだけど、企業に作られた以上は、あんな都合のいい行動は制限されるように設定されてそうなもんだけどなぁ。まぁそれは良しとして、彼も結局は、機械でありつつも人間のような存在である。器は人間ではないものの、人格を持った他者なのである。そう思いませんかね?
最後、主人公らのためにあのロボットは、自分を初期化して再起動する的なことを言ってたと思う。あれって、考えてみると自殺するのと同じだよね。次に再起動した時には、同じあのロボットとしては存在できないはずだから。・・・切ないなぁ。そして、なんともイイ奴である。
てなことで、この作品は主人公と他者である自分、そしてロボット、彼らの間に醸成される、切なく静かな友情を描いた作品でもあったと思う。
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