マッド・ダディ
ある日、テレビで流れるノイズみたいな画面を目にした大人たちが、自分の子どもたちを殺しにかかりはじめる。渦中の人となったニコラス・ケイジ一家の運命やいかに。ネタバレあり。
―2018年公開 米 85分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:「ゴーストライダー2」のブライアン・テイラーがニコラス・ケイジを主演に迎えたスリラー。ある日、親が我が子を殺すニュースがテレビで次々と報じられる。心配して会社を早退したブレントは、2人の子の顔を見た瞬間、正体不明の殺意に突き動かされる……。共演は「ヘルボーイ」のセルマ・ブレア、「X-コンタクト」のランス・ヘンリクセン。(KINENOTE)
あらすじ:それはブレント(ニコラス・ケイジ)にとって、いつもと変わらぬ朝だった。若い頃に思い描いていたものとは全く異なる冴えない日常だが、結婚して十数年、2人の子どもにも恵まれ、自らにこの生活が幸福であると言い聞かせて暮らしてきた。今日も、いつものように会社へ行き、緊張感もないまま仕事をこなす。だが、その日のテレビはいつもと違っていた。親が我が子を殺害したという陰惨なニュースがひっきりなしに報じられているのだ。国中がパニックに陥る中、愛する子どもたちの身を案じたブレントは、仕事を早退して帰宅。子どもたちの無事を確かめ、ホッとしたその瞬間。彼の中で何かがはじけ飛ぶ。“この子たちを殺さなければ!”。正体不明の殺意に突き動かされたブレントは……。(KINENOTE)
監督・脚本:ブライアン・テイラー
出演:ニコラス・ケイジ/セルマ・ブレア/アン・ウィンターズ/ザカリー・アーサー/ランス・ヘンリクセン/オリヴィア・クロチッチア
ネタバレ感想
全然期待してなかったし、ラストが何だか拍子抜けだけども、作品そのものに何がしかの深みが感じられる内容だった。
ニコラス・ケイジの娘が学校の授業を受けているシーンで、計画的陳腐化の話が出てくる。その辺の話が作品にどう絡んでいたのかはわからなかったんだけど、要するにこの話、大人が社会生活に疲れ果て、子どものころに理想としていた自分にはなれなかったことにストレスを感じ、自分の子どもへの嫉妬心や憎しみの心が増大されてバイオレンスな行動を取りだすという内容だ。
人間は当然だけど、歳をとるごとに若さが失われていくわけで、大人は必ず、若さに対する羨望や嫉妬みたいのは持っているものだ。この映画の特徴的なのは、大人たちの怒りの標的が、若者全般ではなく、自分の血を有する子どもたちに限られるという点だろう。てなわけで、終盤、ニコラスの両親が彼を殺しに来る展開にはなかなか捻りがあって面白かった。
大人になると結婚し、子どもをつくって家庭を持つという生き方は、今でも一般的な人生の選択肢ではあるものの、そこから得られるものは幸せだけではなく、この映画で描かれるような負の面も有する。けっきょく、そういう状況を生かすも殺すも自分次第なわけだが、社会の要請によって家族を持つことを強要されるような世の中にはなってほしくないものだ。てなことを独身の俺は思ったのである。何だかよくわからん感想だが。
ついでに、物語中で大人になるというか、子どもを育てる親になると、自分の名前がなくなる(かなりの意訳)ーーというようなセリフがある。確かに、俺も自分の親のことは名前で呼ぶことはない。これはどういうことを意味するのかというと、子どもを育てる立場になった人間は、社会的には個人ではなく人の親としてのアイデンティティを付与されるということだ。
子ども目線からの名づけを自覚的に生きる=お母さん、お父さん、パパ、ママと呼ばれることは、ある意味では個人としての存在よりも別の生き方を課せられたことになるのである。そこに違和感を覚えずに生きてきた人間、違和感があるものの何事にストレスを感じているのかよくわからぬ人間こそが、今作で狂暴化する親たちだったのかもしれない。俺には子どもがいないのでよくわからんが。
ちなみに、親が子どもを殺す話と言えば、中学生の頃、友人の家で読んだ永井豪の『ススムちゃん大ショック』という漫画を思い出す。今作以上にショッキングな内容で、トラウマ級の作品。未だにあの結末と最後の一コマが忘れられない。
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