イット・フォローズ
劇場公開時に見に行けず、DVDで鑑賞。いやいや、とても面白い。素晴らしい。2016年と言わず、ホラーでは個人的オールタイムベストの上位に入りそうなくらい好きな作品になりました(1回しか見てないけど)。ネタバレあり。
各国の映画祭で高い評価を獲得し、クエンティン・タランティーノも絶賛の声を寄せたホラー。ある男との性行為を機に、他者には見えない異形を目にするようになってしまった女性に待ち受ける運命を見つめる。メガホンを取るのは、新鋭デヴィッド・ロバート・ミッチェル。『ザ・ゲスト』などのマイカ・モンロー、テレビドラマ「リベンジ」シリーズなどのダニエル・ゾヴァットらが出演。独創的で異様な怪現象の設定に加え、次々とヒロインの前に現れる異形の姿も鮮烈。(シネマトゥデイ)
ネタバレ感想
“それ”って何?
この映画って解釈を巡っていろいろ言われているようですね。確かに、人によって感想も解釈の仕方もわかれそう。でも、それだけ示唆に富んだ豊穣な作品ってことですよね。中でも「“それ”=死のメタファー」という解釈。この解釈が最も腑に落ちるものでした。
“それ”には、誰もが追い回されている
「“それ”=死のメタファー」について自分なりに考えてみると、“それ”に感染した人物は、可視化された「死」に追い回されることになる。でも、人間はいずれ必ず死ぬ存在です。つまり、可視化されなくとも人間は常に、“それ”=死に追い回されているということを、この映画は示唆しているということになる。
もちろん、映画のように様々な人物に姿を変えて自分を殺しに来るわけではないものの、“それ”=死を常に感じて意識的に生きることが、自分の生をよりよいものにする――というような考え方は、これまでも様々な作品や知識人らの格言などで言われてきたことだと思います。この映画はホラーのストーリーにそういうメッセージを込めているところが素晴らしい。
町山智浩さんの解説
いろいろな解説やレビューサイトがある中で、映画評論家、町山智浩さんも映画無駄話でこの作品について「“それ”=死」と説明していました。そして、この町山さんの解説がやっぱり一番面白い。デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督自身が本作について「生と死と愛の物語」だと言及していることを指摘しつつ、同監督が前作で描いていたことや、本作品内に出てくる、T・S・エリオットの詩やドストエフスキーの『白痴』が示唆していることを説明。そしてこの物語がどのようにラストにつながっていき、ラストについてどんな解釈ができるのかを語っていたと思います。
でも、あの屋根の上の裸の人って親父なのか?
ただ気になったのは、町山さんは裸で屋根の上に立っていた“それ”について、「父親だ」と言っていたこと。そうなのかなぁ…。俺はあれ、そのちょっと前のくだりで主人公の女の子、ジェイが海に行って、沖でボートに乗っている男たちのとこに泳いでいくシーンあるじゃないですか。あれの中の、誰かが“それ”になった姿だと思ったんです。はっきり親父だとわかるほど、顔でっかく映ってましたっけ?
あのシーン、ジェイは何のセリフもなく浜辺に出て、泳いでボートに近付いていって、その後ジェイが車を運転しながら思いつめたような顔をしてたと思うんだけど、あれって、ジェイが“それ”をうつすために、ボートの奴らの誰かと事に及んだってことじゃないの? 他のレビューを探しても、このシーンについて書いてあるサイトが見つからなくて、だから自分で書いているわけですが、気になるなら、自分でもう一度そのシーンを確かめればいいだけですね(笑)。※これについては後日、確認しました。詳細は最後で。
ジェイはビッチ
あの中の誰かとやっておけば、その人がまた別の誰かとsexするはず。そうすれば、自分のところに“それ”が戻ってこなくなるかもしれない。何か、最初に“それ”をうつされた男との付き合いとか、劇中の言動を見てると、ジェイってそういうことしそうですよね。
で、うつしてきたと思ったのに、屋根の上に裸の“それ”がいたから、ジェイは驚愕する。うつしたと思った相手は“それ”に殺されたから、また自分のところに“それ”が戻ってきたことに呆然としている。あそこはそういうシーンではないのかな? 親父が“それ”になった姿を見るよりも、あの時点では、より愕然とすると思うんだけど。
あらためて考えてみると、この娘、あんまりいい人じゃないよね。行動が全部自分のためなんだもん。だから、けっこうイライラしてくる。妹やポールたちはなんであそこまで親身になって彼女を助けてやろうとするんだろうか。いい加減ウンザリして文句のひとつも言ってやりたくなりそうだが。容姿がいいってのはそういう意味でも得なのかもしれんなぁ。
童貞ポールが大人になる物語?
で、最終的に以前からジェイに思いを寄せてた童貞ポールとsexして、ジェイは“それ”をポールにうつす。事が終わった後に、お互い「特に何かが変わったとは思わない」と確かめあってるシーンがあったと思います。でもポールは口ではそう言ったものの、あそこで何かが変わったと思うんですよね。心的な成長というか、簡単に言えば、男としての自信がついたと思うんです。美人で憧れてたジェイと、どういう経緯であれsexできたんだから。
町山さんの解説内では、若者がsexや飲酒などをすることを「ティーンエイジャーの神話=やらなきゃいけないこと」と言ってたように思うんだけど、確かにそうかもしれない。でも、ティーンエイジャーはそういう神話の中に生きている子たちも多いのではないだろうか…。自分はそうだったと思う。仮にデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督が「やらねければいけないことではない」と思っているのだとしても。みんながみんな、大人になることを嫌悪してたわけではなくて、「くだらない大人」に早くなりたがっている若者もいるだろうと思うんですよね。それがバカだって言うんなら、そのバカさ加減が若者の良さの一面ではないだろうか。
少年は獅子になったのでは?
たかだか1時間余りで蚊トンボを獅子にかえる、勝利とはそういうものだ――。
これは漫画、『グラップラ―刃牙』で「史上最強の生物」と呼ばれる範馬勇次郎が述べるセリフの一つです。sexすることが勝利かというとまぁ微妙なんだけど、童貞の男子にとっては、経験を果たすってのは結構重要だと思うんですね。sexが大人への通過儀礼にはならないとしても、その行為そのものが大したことないんだとわかることは、ある意味で通過儀礼になるように思う。しかもポールにとっての相手であるジェイは、本当に大好きで、憧れてて、自分にとっては高嶺の花だった人なんだから。若い時にこういうことを成就できる人ってそんなにいないのではなかろうか。
そういう人を相手にポールは童貞を捨てられた。そして、自分を守ってくれたポールに対して、ジェイは負い目を感じている部分があるはず(全く感じないほどにビッチでないなら)。だから、ポールの「ジェイ=女性に対する目線」は対等、もしくは上にすらなる可能性がある(別に偉そうになるとかではなく、良い意味で大人の男として接せられるようになるという意味です)。それがこの作品に当てはめ得る“蚊トンボが獅子に変わる”ということだと思う。このことは別に、ポールが打算的に考える人間になって、ジェイに対する純粋な恋心をなくしたとかそういうことを言いたいのではないです。
倫理感とか知らん。俺はピュアで獅子のように強いのだ(笑)
ということでラスト、ポールは通りで見かける娼婦たちに“それ”をうつしたと思います。大好きなジェイと“それ”に怯えずに暮らしていくには、それが最良の選択ですからね。娼婦にうつせば、彼女が同じ日に別の客を取るであろうことを考えると、その時点でポールの前に壁が二つできる。つまり、ジェイには三つ。
ポールはこれまで、かなり奥手な少年だったことは物語を見ているとよくわかる。でも、彼はもうそういう男ではない。他人を犠牲にしてでも、自分自身の愛する人を助ける道を選ぶ――。倫理的にどうこうはおいておいて、そういう覚悟を持った男にポールは成長したのではないか。そして、そういう真っすぐさって、実にピュアじゃないかと思うのです。
もう一回見たら、自分の解釈の間違いに気づくのかもだけど、そうした細部は棚に上げても、「死は常に自分の傍らにあって、いつ襲ってきてもおかしくない」ということを意識させてくれる。そしてもちろん、「ホラー映画的な怖さ」を十分に有しているところに、この映画の素晴らしさがあると思います。
※ここから下は確認したあとで2017年2月4日に加筆してます。
あの裸の人は親父でした…?
本当は通しで見たかったけど時間がなかったので、上の見出しの「でも、あの屋根の上の裸の人って親父なのか?」の該当部分とラストのあたりを確認しました。結論から言うと、屋根の上の人はボートの誰かではないみたいです。俺の間違いだね。すみませんでした! ただ、親父かどうかってのも微妙。てことで、そのシーンの画像を。
…とまぁこんな感じですね。あれ? 屋根の上の人老け過ぎでは? 下の2枚は親父だよね。一番上のヨットと屋根の人は同じでないように見える…。しかし、屋根と本当の親父もあんまり似てないなぁ。
まぁしかし、”それ”はいろんな人に姿を変えてくるわけだから、親父かそうでないかってのはさほど重要ではありませんな。だから、個人的な全体の解釈については、今のところ変わらないです。
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