アノマリサ
他人の声がすべて同じに聞こえてしまう男、マイケル。彼は人生に飽きている。ある日、出張先で、唯一、自分の声を発声する女性に出会ったマイケルは、彼女に猛アタックして成就、添い遂げることを約束したのだがーーネタバレあり。
―2015年製作 米 90分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:鬼才、チャーリー・カウフマン監督によるストップモーションアニメ。名声を得ながら、人生に何の刺激も感じられずにいるマイケル。誰の声もすべて同じに聞こえていた彼は、唯一聞こえた“別の声”を持つリサと出会い、特別な一夜を過ごすが…。(KINENOTE)
あらすじ:カスタマー・サービスの分野でモティベーション・スピーカーとして名声を築き、本も出版しているマイケル・ストーン。しかしながら彼自身は人生に何の刺激も感じられずにいた。
ある日、講演者として呼ばれてきたシンシナティ―で、彼の講演を聞きに来ていたリサという女性と出会う。長いこと、誰の声であっても全て同じ声に聞こえていたマイケルが、唯一聞こえた”別の声”の彼女と特別な一夜を過ごすのだが…。(amazon)
監督:チャーリー・カウフマン/デューク・ジョンソン
脚本:チャーリー・カウフマン
出演(声):デヴィッド・シューリス/ジェニファー・ジェイソン・リー/トム・ヌーナン
ネタバレ感想
マルコヴィッチの穴の脚本家、チャーリーカウフマン監督作
チャーリーカウフマンといえば、彼が脚本した『マルコヴィッチの穴』ってのが結構好きで、何度鑑賞したかしれない。そんな彼が今作では監督をしていて、相変わらず奇妙な世界を描くのが好きな人だなぁと思わせる内容になっている。
今回本作を久しぶりに鑑賞してみたけど、作品全体を貫く意味とかそういうものよりも、何か形而上的な問題を感じさせる内容にしたいのかなぁと思わせなくもないが、やっぱりようわからん(笑)。わからんくてもそれなりに面白いと思えるのは、彼の感じる世界への感触にある程度は俺も共感する部分があるからだろう。
他人の声が全部同じに聞こえるマイケル
主人公のマイケルは家族とそれほどうまく行ってなくて、人生に飽きている感がある。そのつまらなさや寂しさを埋めるため、出張仕事の多い彼は出張先で女性をナンパする生活をしているっぽい。今作では昔に捨てた女性と再会を果たして交接をもくろむが、あえなく撃沈。元彼女にはけっこう酷い別れ方をしていたらしく、罵倒されてまう。
そもそもこの男は精神疾患でもあるのか、他人の声が全部同じ男のそれに聞こえる。相手が女性であっても。ところが、今回の出張先で出会ったリサという女性だけは、唯一、自分自身の声で語っていることがわかり、マイケルは彼女に夢中になってしまうのだ。
なぜ彼女だけが固有の心を発声できたのかの説明はない。しかし、もう一つの存在、マイケルがリサに出会う前に購入した日本人形も唯一の声を発声できることがラストで判明する。つまりマイケルにとって唯一の声として発声できる存在はリサと日本人形のみなのだ。しかもこの二つの存在は顔の同じ場所に傷がある。
と、いうことは、リサは妄想の世界の住人なのかも。つまりマイケルの脳内で発生している幻覚。彼は出張が終わった後にこの日本人形を息子へのプレゼントとして渡しているが、息子が言うに、この人形には精液みたいのがついていると。であるから、リサとしたセックスは実は現実の出来事ではなく、彼の妄想であって、実はこの日本人形をダッチワイフのように活用していた可能性があるのである。
とかまぁ、その辺はそうじゃなくてもどっちでもいいんだけど、個人的に重要なのは、このマイケルが見出す存在の固有性はどこにあるかということだ。彼は他人が全部同じような没個性の存在に見えてしまっている。しかし、実は彼自身が他人を没個性の存在に貶めているという見方もできる。
彼はカスタマーサービスを効率化、高品質化するためのコンサルみたいな仕事をしてて、彼の著書は人気が高く、ベストセラーで、それゆえに講演にも招かれるほどの男なのだ。彼の仕事は人々のサービスを画一的にマニュアル化するためのもので、ビジネスパーソンとして没個性化させるものだと考えることもできる。
そういう仕事を繰り返す中で、彼はプライベートで接する人たちの存在も画一的な没個性的なものとして認識するようになってしまっているのではないか。そして、唯一その画一化から逃れて固有の発声ができるのは、人形なのである。そもそも没個性のはずの、魂のない存在の発する音声は唯一のものと聞こえてしまう逆転現象。それは彼自身が人生に飽いて人形化してしまったことを意味しているのではないか。
彼はリサとの夜を過ごした翌朝、家族を捨てて彼女と添い遂げることを誓うものの、彼女の食事の仕方が気に入らず、どうしてもその個性を認めることができず、彼女のその癖を矯正しようと努める。彼女は彼の指摘に従って癖を直そうするのだが、それによってマイケルにとっての彼女の声は、他の他者たちと同じになっていくのだ。
つまり、彼自身が彼女の固有の声を他の他者と同じ没個性な声に変えてしまったのである。これは彼が他人の固有性を認めずに、自分の思うように動いてくれる人形のような他者を求めていたことを現していると考えることもできる。要するに、彼はその自己愛のために、他者も自分の愛する何かのようになってもらうことしか求めていないのだ。彼は自分の内面から出ていくことができず、外部の存在を固有のものとして認めることができないのである。
世界は閉ざされている。人間は孤独だ
しかし、ある意味において人間というのは自分から開けて見える世界しか認識できないのであり、マイケルのような世界観で生きている、生きざるを得ない部分もあるのも確かで、その内外の世界のギャップと、そこをうまく接続することの不可能性をこの映画は示しているとも考えられるし、それゆえに、マイケル=人間の孤独性を表現しているようにも見える。
これは『マルコヴィッチの穴』で、マルコヴィッチの内面世界の他人はすべてマルコヴィッチと同じ姿をしていたシーンでも同様のこと、つまり自己の世界を外と接続することの不可能性、世界は絶対的に閉じていて、その扉は開かれているようでいて、開いた先の地平にも結局は自分しか見いだせないという人間の孤独性を表現しているのかも。つまり、チャーリーカウフマンには世界がそのように見えているのではないか。そして、そのように解釈する俺の世界もそのようにして閉じているのである。
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