村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝 栗原康著
アナーキストの大杉栄の奥さん、伊藤野枝氏を紹介しつつ、「あたらしいフェミニズムの思想をつむいでいきたい」という内容である。タイトルにある「村」とは、世にはびこる常識によって生きづらくなっている今の社会のことを示しているらしい。そんな村社会に火をつけて、バカになって助け合おうということか。やっちまいな!
―岩波書店 2016/3/24―
内容紹介:「不朽の恋を得ることならば、私は一生の大事業の一つに数えてもいいと思います。」筆一本を武器に、結婚制度や社会道徳と対決した伊藤野枝。野枝が生涯をかけて燃やそうとしたものは何なのか。気鋭の政治学者が、ほとばしる情熱、躍動する文体で迫る、人間・野枝。その思想を生きることは、私たちにもできること。やっちまいな。
内容:ほとばしる情熱、躍動する文体で迫る、人間・野枝。筆一本を武器に、結婚制度や社会道徳と対決した伊藤野枝。彼女が生涯をかけて燃やそうとしたものは何なのか。恋も、仕事も、わがまま上等。お金がなくても、なんとかなる。100年前を疾走した彼女が、現代の閉塞を打ち破る。(「BOOK」データベースより)
本を読むことは自分を読むことにもなる
栗原氏3冊目。これもなかなか面白い。ちなみに、俺は大杉栄も伊藤野枝も全く知らなかったんだけども、甘粕事件の犠牲者だそうです。事件の首謀者である甘粕正彦は映画、『ラストエンペラー』だったり、その他多くの漫画や小説の中で登場する人物なのでなんとなくは知っていたが、本書を読んで、満州国でいろいろな活動をする前に、こういうことをした人なんだということを知り、勉強になったのである。
ということで、本書について。『死してなお踊れ 一遍上人伝』のときに佐々木中氏の書籍との重なり合う部分についてやんわりを触れたけども、本書を読んだことで、栗原氏の思想というのは、永井均の哲学を倫理学的に考えて思想につなげているように俺には思えた。こういう発見ができるから、読むことは面白い。
そう読めちゃったんだから仕方ない
ただし、上記のことは栗原氏が意図的にそういうことをしているのではなく、永井氏の哲学に影響を受けている自分が読んだ感想としてそう思ったということである。であるから、以下にちょっと紹介することは、両氏からしてみれば「何言ってやがる」と思うだろうけど、そう読めちゃったんだから仕方ないという内容が含まれる。
完全に一致しているわけではないけども、「思想と哲学の違いについて私見とか」の記事で「永井氏の哲学は思想にならない」というくだりの最後で触れた、「実はもしかしたら思想にできるかも」と思った自分の考えをつきつめると、栗原氏の言につながると思ったのである。
だから本当は永井氏の哲学について自分なりの見方を紹介しないと、栗原氏の言につながるプロセスがわからなくてこの記事は不親切極まりないものになる。でも、あえてそこには言及せずに、本書の内容を引用しつつ、個人的感想を述べます。
やりたいことだけやって、生きていたい
まずは栗原氏の基本的な考えを。
ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないというきまりごとなんて存在しない、それはどんなに良心的にかわされたものであったとしても、ひとの生きかたを固定化し、生きづらさを増すことにしかならないからだ。平等になって男のような女になることも、女らしい女になることも、めんどうくさい。けっきょく、よりよい社会なんてないのである。約束をかわして生きるということは、なにかのために生かされているのとおなじことだ。やりたいことだけやって生きていたい。ただ本がよみたい、ただ文章がかきたい、ただ恋がしたい、ただセックスがしたい。もっとたのしく、もっとわがままに。ぜんぶひっくるめて、もっともっとそうさせてくれる男がいるならば、うばって抱いていっしょに生きる。不倫上等、淫乱好し。(13頁)(太字は俺)
そりゃあ誰だって、太字部分に強調したように、「やりたいことだけやって生きていたい」。でもそれってなかなか大変だし難しい。
どうすればそれができるんだろうか。わがままにやりたいことだけをやって生きるのは、協調性が求められる世の中の常識的な考えには相いれない。俺だってわかがままに生きたい。だけど、わがままに生きている人を目にすると、非難したくなってしまう。これは俺が典型的な常識人であるからなんだが、栗原氏はそういう考えは捨てたほうがいいと言っているようだ。
ひとはみなわがままだ、それに徹していいんだということである。自由にものを考え、自由に行動する。大切なのは、たがいのわがままを認めあうことであり、それ以外はなにもない。でも世のなかには、自分だけわがままをして、そのために他人をしたがわせたいというわるい奴らもたくさんいる。しかもムカつくのは、そいつらがムリやりやらせていることなのに、それがあたりまえなんだとか、道徳的なことなんだとかいってくることだ。(39頁)
わがままに徹していいんだけども、大切なことがある。それが「たがいのわがままを認めあうこと」。ただそれだけでいいと。でも、そうはならない。わがままを他人に従わせたがる人が世の中にはいるのだと。確かにそうだ。俺が上述した「わがままに生きている人を目にすると、非難したくなってしまう」ということがまさにそれ。これは、常識に毒されている。道徳的なモノの考え方に縛られているということに他ならない。
大事なのは認めあうこと!
そうではなく、大事なのは「わがままを認めあうこと」なのである。この「認めあうこと」を俺的な言葉に置き換えると「自分が特別な存在であるのだから、それと同じような在り方をしている他人の特別性も認めること」という言い方になる。
そして、ここが俺が影響を受けている永井均氏の哲学から得た俺の考え方なのである。つまり永井氏の哲学を思想として使うならこうなる――ということだ(あくまで俺がそういう解釈をして使うという話であり、永井氏が必ずしもそういうことを問題にしているわけではないということは、くれぐれも注意)。
ここでもう一度、大杉栄の考えを紹介しつつ、自身の考えを述べる栗原氏の言に戻る。
資本家にたよったり、カネをかせいだりしなければ、生きていけないという感覚をふっとばす。自分のことは自分でやる、やれる。それを行動にしめすことが大事なのである。
大杉はいう。ひとたびこの感覚をとりもどせば、ひとの生きかたはもっともっと自由になるんだと。カネもうけにつながらなくたっていい、だれからも評価されなくたっていい。つくりたいものがあればつくり、かきたいことがあればかき、うたいたいことがあればうたう。だれがどこで、どんなことをやったって、ぜんぶ人の自由だ。ひとの生きかたに、これという尺度なんてありはしない。だから、あとさきなんて考えずに、おもいきり自分の生きる力をあばれさせてしまえばいい。失敗なんてありはしない、自分の力のたかまりを自分でかみしめるだけなのだから。すごい、すごい、オレすごい。自分の生きる力をじゃんじゃんひろげ、そこに充実をおぼえていく。大杉は、それを生の拡充とよび、ひとが生きるうえで、いちばん大切なことなんだといっている。(105頁)
繰り返しになるけども、これが栗原氏の考えるアナーキズムの基本なんだろう。そしてこれを踏まえて、男女の恋愛関係について、こう述べる。
愛するふたりは、けっしてひとつになれやしない。(中略)なぜかというと、ふたりはまったくの別人であるからだ。(中略)でも、だからこそ、ひとは心身ともにめいっぱいふれあって、相手にたいしてやさしくしようとおもう。(中略)これをくりかえしていくうちに、愛するふたりは自分ひとりでは気づかなかったような、あたらしいよろこびを発見していくことになる。(124頁)
略が大すぎでちょっと恣意的な感じもするが、「ふたりはまったくの別人であるからだ」ということが重要だ。この意味を俺的に言うと「他者は存在として別の在り方をしている」となる。だから、個人的には栗原氏の指摘は、異性だけでなく、万人、全ての別の存在に対しても言えることなのだと俺は解釈する。
ひとつになっても、ひとつになれないよ
基本は、ひとつになっても、ひとつになれないよ、である。愛するふたりは、かけがえのない個性をもった存在であり、ほんとうのところ、ひとつの集団に同化することなんてできないはずだし、夫や妻といった、だれとでも交換可能な役割をもつことだってできないはずだ。そして、ぜったいにわかりあえないからこそ、たがいにやさしさをふるまい、それまで自分でもおもってもいなかったようなよろこびを手にすることができる。そうやって試行錯誤をくりかえしながら、たがいの力をたかめあい、愛情をはぐくんでいきましょうというわけだが、野枝はそれって友情とおなじだよねというわけである。むしろ、恋愛というのは、友情のうえに性交渉がのっかっただけなんじゃないのかと。(中略)友だちに主従関係はありえない。契約だって必要ない。そんなものがでてきた瞬間に、友情はきえうせてしまう。友だちと遊ぶのは、ただたのしいからである。(128頁)
これも男女の関係について述べているけども、拡大解釈すれば、全ての存在に対して言えるのではないか。他者との関係は友情のうえに成り立つのではないかと。それを証明するように、このような話に続く。
わたしはすごい、もっとすごい、きみもすごい、あのひともすごい。きっとそういうところから、はじめて男女関係でも、女性同士でも、男性同士でも、真の友情がめばえることになるだろう。(中略)友だちがほしい。泣いて笑ってケンカして。ひとつになっても、ひとつになれないよ。(134頁)
単に、相手のことを認めること。わがままを認めること。ひとつには決してなれない。それぞれが特別な存在だから。だから、友だちとして泣いて笑ってケンカして、しかし、認めあい助け合うことが必要ということなんだろう。
無政府主義の世は実現可能か?
相互扶助の輪をひろげていくと、ほんとうに行政なんていらなくなってくる。(中略)ひとりではカネも経験もなかったとしても、まわりに子育ての経験のある友だちでもいれば、だいたいなんとかなってしまう。あるいは自分ひとりじゃ口下手で、しかもヒョロヒョロしていてなにもできなかったとしても、まありに口達者な友だちや、ガタイのいい友だちでもいれば、たいていのイザコザは解決できてしまう。自分にはあんなこともできたのか、こんなこともできたのか、友だちがいれば百人力だ。国家も経済もいりはしない。非国民、上等。失業、よし。目のまえでこまっているひとがいたら、ひとはかならず手をさしのべる。無政府は事実だ。(152頁)
引用箇所だけで読んでもらえば、栗原氏の無政府主義とはいかなるものかが分かると思う。では、それって実現可能なんだろうか。かなり難しいと思う。俺も他人の存在の特別性は認めるが、他人のわがままさを認められるかどうかには自信がない。すでに常識に浸りまくっている自分が、他人の非常識的言動にどう対処するかが問題になるからだ。
この問題についても考えるといろいろのことを書けるけども、今回は栗原氏の書籍を紹介しつつ、自分の考え方につながる発見があったことを言いたかったので、この辺でやめておく。
俺の意見どうこうはどうでもいいとして、本書も面白く読める内容なので、オススメです!
善悪を越えた言葉を獲得するために、みんな人間であることをやめよう。
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