死してなお踊れ 一遍上人伝 栗原康 著
一遍上人の生涯を独自の語り口で紹介した本書は、一遍上人の言がそのまんま栗原氏の言として息づいている。つまりこれは、一遍上人を介して栗原氏が己の信ずる思想を述べているのである。もちろん本編も面白いが、「はじめに」「おわりに」ではユーモアを交えつつ、より栗原氏の現実に即した話が書かれている。「いくぜ極楽、なんどでも!」 ―河出書房新社 2017/1/27―
名家の生まれながら、全てを投げ捨て、「踊り念仏」で民衆を救おうとした一遍上人の評伝。著者は大杉栄などアナキストを近作で描いてきたため、鎌倉時代の宗教家を取り上げるのには違和感を抱いたが、一遍こそ元祖アナキストというのが著者の持論だ。支配されることを嫌い、やりたくないことを拒否し、何も欲しない。開宗も望まない。とはいえ、民衆は欲にまみれた現世からどうすれば自由になれるのか。一遍の答えはシンプルだ。空っぽになればよい。全部捨てて踊り狂えばいい。アナーキズムの視点で一遍の人生を辿ることで、存在を急に近く感じることができる。
軽妙な文体は健在。嫌なことがあれば、思わず、ぴょんぴょん跳ねて踊りたくなるのは著者の筆力か、一遍の魅力か。読後の爽快感に満ちた一冊だ。
評者:栗下直也(週刊朝日 掲載)
至福の読書体験が味わえる一冊
最近、栗原康づいている。そのくらい面白いことを書く人だ。佐々木中以来だなぁ、こういう至福の読書体験は。仕事に追われちゃうと活字がちゃんと読めなくて、読む体力も薄れていて、ここ数年は流し読みばっかりしてる。そうした中でも自分の心に深く入り込んでくる書き手が稀にいて、そういう人たちの書籍に触れちゃうと、やっぱり映画鑑賞だけでなく読むこともやめられない。
興味深いのは栗原氏も、本書や前に紹介した『はたらかないで、たらふく食べたい「生の負債からの解放宣言」』の中で佐々木中を紹介したり参考にしたりしていること。つまり、俺の考え方にどこか重なりあうところがあるからこそ、そういうことが起こるんである。そんな私的な前置きはどうでもよくて、本書について!
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この読みやすさが栗原氏の素晴らしさ
ともかくこの人の書籍の面白さは、難しそうな話をしているのに文章が読みやすくわかりやすいところ。しかも文のリズムが良くて心地よい。ラップに近いよね。というか、本書で語られる一遍上人からして仏僧というよりはアーティスト、念仏唱えて踊っているのである。踊り狂っているのである。栗原氏もそんな一遍上人を語りつつ、文章の中で縦横無尽に踊る。
捨てろ、全てを捨てて踊り狂え。「いくぜ極楽なんどでも!」てな感じか。
「わたしはセックスが好きだ。テクニックはない」(笑)
引用したい部分がありすぎて困るのだが、「はじめに」からして面白すぎる。
「わたしはセックスが好きだ。テクニックはない」――まるでカミュの「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。」という『異邦人』を思わせる書き出し。もしくは夏目漱石の「吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。」なのか。いずれにしても言っていることはセックス(笑)。
それに続いてこう書く。
仕事なんてどうでもいい、カネなんて稼げなくてもいい、なんにも気にせずに好きな文章でもかいてやるとおもっていても、そのときつきあっている子に「てめえ、ちゃんとはたらけよ」といわれれば、アルバイトでもなんでもやってしまうし、それでいそがしくなったら、なんにもできなくなってしまう。もうイヤだ。やめちまえ。そうしてまたセックスをして、おなじことをくりかえす。「このクソ野郎、死にやがれ」と、メタくそにいわれてフラれるまでは。
あるいは逆に、やりたいことがちょっとうまくいったとしても、こんどはそれが仕事になってしまって、がんじがらめになっていたりする。気づけば、意にそわずやらなきゃいけないことばかりだ。ちくしょう、あたらしい仕事がふえただけ。かせげ、かせげ、ゼニかせげ。(中略)でもそうやって地べたをはいつくばり、もがき苦しんでいるうちに、フッと実感こみでわかってくることがある。ああ、どうせオレはダメなんだ、たかだかオレは畜生だ。なにをやってもダメならば、とにかくなんでもやっちまえ。素っ裸だ。いつだって、ゼロからはじまるいまこのとき。そういう瞬間をなんどもなんどもつかみとっていくことが、ほんとうの意味での自由なんだとおもう。格言だ。つきせぬ自由は、がんじがらめの不自由さのなかにある。(はじめに)
宗教を捨てた宗教家
そんな栗原氏が評する一遍上人。面白くないわけがない。俺は一遍上人なんて名前しか知らない程度の浅学だが、この書籍を読めば、学問では学べない生きた一遍上人の生き様が学べる。だがそれを鵜呑みにしてはいけない。これは、一遍上人を評しつつも、栗原康氏のアナキスト的思想こそ全面に描かれているのだと俺は読んだ。
で、本書で感じるのは一遍上人こそが、俺の思う真の宗教家なんではないかということだ。なんらかの宗派を持つ人は怒るかも知れないけど、俺は宗教の開祖たる人は、信者がほしくて何かをしているわけではないと思っている。自分自身に何かの問題意識があって、それを追究するためのいろいろをしていたら、支持者が集まって、死後、そいつらから祭り上げられることになる。それが宗教の開祖の運命というような。
栗原氏によると一遍上人は遊行をして仲間を増やしてはいるものの、自分のやっていることを後世に残そうなんて微塵も思ってなくて、それを支持者にも公言していたようなんである。
これってすごいことだ。だから引用する。以下は栗原氏が引用した一遍上人の言の解説。
自力他力は初門のことなり。あいかわらず、いいことをいう。他力にすがって往生しましょうと、そこまではいいのだが、さらにこまかいことをいって、まわりときそいあっていたら、かならず自力我執がうまれてしまう。たとえば、法然のいっている他力には、まだ自力の要素がのこっているんじゃないかとか、親鸞にもそういえるところがあるんじゃないかとか、ひとの文章をあげつらって、そんなことをとやかくいっていたら、けっきょく自分の理論がただしいんだとかいって、それに執着してしまうのだ。自力である。だから、だいじなのは、そんなこだわりさえも捨ててしまって、ひたすら念仏をとなえることだ。死ぬ、死ぬ、死ぬと思いながらナムナムいって、あたまを空っぽにしてゼロからはじめる。なんにもなくなる、なんにでもなれる、なんでもやれる、仏にもなれる。きっと、これをやるのは理論をまなんでいるひとほどむずかしいことなのだろう。一遍からのアドバイスだ。こまかいちがいは気にするな。死力を尽くしてバカになれ。(太字は俺)(206頁)
俺は法然も親鸞も教科書以下のことしか知らない。でも、これってすごいことを言ってないですかね。自分が言いたいことを言っていると、それが正しいと固執して、それを開陳することに夢中になって、そもそもそんなことが目的ではなかったははずだし、自分は屑だったのにいつのまにか、まっとうな支持を得たことによって、自己顕示欲が満たされその思いに固執してしまう。
でも、そうではだめなのだと。そこからさらに、それすら捨ててゼロからやり直す。それがバカになるということ。それができたらバカじゃないんだが、バカでいろと。
ただ唱えて踊って唱え続けて踊り続けろ
そこがすごいんだよね。何もよりどころなんてなくていい。ただ、己の信じること(というよりやりたいこと)をやる。それをやった結果として認められても、そこで満足して支持者にお追従を述べられて気分がよくなって徒党を組むのではなく、今一度その境地をリセットして、ただ己は念仏唱えて踊り狂い続けるのである。それこそが仏へと至る道なのだ。
既成概念なんてクソ食らえ
個人的な話に戻ると、経営者でもなんかの団体の長でもいい。俺はそういう人たちの話を聴きにいく機会が仕事であるので思うのだが、彼らは信者を増やそうとしているのだ。既成概念としての善悪で彼らは善を選び、それに尽くしているから話を聞いていて、面白いし素晴らしい人たちだ。
でも、彼らの言に違和感を覚えることをあえて言うのであれば、「何かを残そうとしている」ということだろう。彼らは事業なりなんらかの普及活動を次代に継ごうとして頑張っているのだ。それはある意味で信者を増やし、後継者を残し続けようとしていることに他ならない。素晴らしい。本当にすごい。俺もそういうことをしたい。
でも、それは単なる欲望なんである。欲望の何が悪い? 何も悪くない。欲をかいて何が悪い。何も悪くない。でも、善とか悪とか、素晴らしい行いとか素晴らしくない行いとか、誰が決めているんだ? それは単なる既成概念にすぎない。それがないと、社会が成り立たないから仕方ない。
でも、社会ってなんで成り立たないといけないの? 確かに俺も、そんな幻みたいな既成概念が成り立った社会の中で、うまく秩序が保たれた世の中で生きていたい。そうすれば、心地よい幸福感と自分の善悪の基準の中に安んじて生きていけるから。でも、現実の社会、世の中はそうでもないじゃん。みんな(俺も)、既成の概念をつかって他人を誹謗中傷するじゃないですか。でも、その根拠って何なの? 単なる既成概念なんだよ、そんなの。
唱え狂い、踊り狂えば極楽浄土
一遍上人は、そんな既成概念の世界から脱しようと、念仏を唱え続けろと言ったんだろう。だって、既成概念にとらわれず、常に自分の考えを刷新していくには、そもそも自分なんてもんを捨て去らないとできないから。一分、一秒ごとに違う自分でいなければできないから。
それを理性の力でやれるか? 無理です。土台不可能です。それでも、既存の価値観とは別の場所で生きるのだ。生きていたいのだ。だから念仏唱えて踊るのだ、死狂いするくらいに唱え続けて踊るのだ。踊り続けるのだ。
言葉は己に帰ってくる刃
俺はこの書籍の内容に共感を覚える。しかし、栗原氏にとっては、共感されてはいけないことなのではないか。なぜなら、共感されたとき、極端にいえば栗原氏は、俺という信者を持ったといえなくもないからだ。既成概念から逃れようとする行為が、既成概念の中にある言葉で行われたことにより、人に伝わる。しかし、栗原氏はその既成概念の外に出ようとしているのではなかったか。という意味で、書くことは常に自己否定をそこにはらんでいる。
だからこそ、捨てるのだ。ゼロになるのだ。そして南無阿弥陀仏だけを唱えて踊り続けることでしか自分の置かれた世界から別の境地に至ることはできない。そういうことを言っているのが、一遍上人であり、栗原氏なんではあるまいか。
念仏をとなえる者は、知恵も愚痴もすて、善悪の境界もすて、貴賎高下の区別をもすて、地獄をおそれるこころもすて、極楽浄土をねがうこころもすて、諸宗派のいう悟りの境地もすて、いっさいのことをすててしまって、ただ念仏をとなえていればいい。それが阿弥陀仏の本願にもっともかなっているのだ。(中略)
念仏の意味は、なんにもないというところにある。なんにもなくる、なんにもなくしてしまうというところにあるんだと。無心になれ。バカになれ、ゼロになれ。一遍は、平安時代に浄土教をひろめた空也のことばをひいて、ひとことでこういいあらわしている。捨ててこそ。
とにかく人間社会というのは善悪優劣の尺度をたちあげてしまうものだ。ほんとうはそんなの、はじめから武力にたけていたり、金持ちだったり、あたまがよかったりする連中が、自分たちに都合のよいように、勝手につくってしまっただけなのに、それにしたがって必死に生きていると、いつのまにかそのなかで評価されなくちゃいけないとおもわされてしまう。おちこぼれをさげすみ、オレはもっとできる、もっとがんばらなきゃ、もっと出世しなくちゃ、もっとひとをけおとさなくちゃいけないと、そうおもわされてしまうのだ。
でも、一遍はそれじゃダメだというのである。いきぐるしい。いちどこの社会の地位だの、名誉だの、ひとをはかりにかける物差しなんて捨ててしまおう。はじめからいっちゃいけないことなんてない、やっちゃいけないことなんてない、山にはいってもいい、川にはいってもいい、海にでてもいい。だれがどこでどんなふうに食いぶちをつくり、ひとと交わり、ケンカしたり、遊んだりしたところで、ひとの勝手だ。それで山賊といわれようが、海賊といわれようが、悪党といわれようがかまわない。やっちまいな。もちろん、一遍はそこまでいっていないのだが、のちに悪党とよばれる人たちが、一遍を支持するようになったのは、そういうことなんだとおもう。そしてこのはなし、だいじなのは宗教者の生きかたについてもおなじだということだ。こまっているひとをみたら、ただ手をさしのべる。感謝なんてされなくてもいい、教団の役になんてたたなくてもいい、それで仏にすくわれなくてもいい。ただ、ひとにやってあげたいとおもったことをやってみる。それがほんとうの意味で、ひとにほどこしをするということだ。(中略)
なにもえられなくたっていい、なんの役にもたたなくたっていい、あたまが空っぽになるまで、スッカラカンになるまで、ただただひたすらさけびつづけろ。善悪優劣だの、そんなクソみたいな尺度は忘れてしまえ。捨てろ、捨てろ、捨てろ。アミダの力を手にとって、無償の生をいきていこう。なむあみだぶつ、なみあみだぶつ。なんにもいらない、なんにもいらない。いつだってゼロ地点からの出発だ。仏はなにものにもとらわれない。なんでもやれる、もっとやれる。悪党上等、生臭好し。人間社会をトンズラしよう。(57~60頁)
死してなお踊れ。別に死ぬわけではないが、死してなお踊れ。糞つまらない道徳の授業するくらいなら(今そういう授業があるかは知らん)、こういう書籍を教科書にしたほうがいいんじゃないのかなぁ。窮屈な常識ばかりを身につけちゃった自分からしてみると、そう思うよ。
善悪を越えた言葉を獲得するために、みんな人間であることをやめよう。
↓個人的に、名を残している修行僧並みにストイックと思っている人物
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