思想と哲学って何が違うのか。ついでに「批判するなら改善策を示せ」という意見について考える。いつだかパソコンに思いつくままに書いてた内容のリライトなので、他人が読んでもわけがわからん可能性も。薄っぺらい記事に感じたら、ごめんなさい。
哲学って素敵
個人的に、哲学ってのは新しい概念、新しいものの見方みたいなのを提示してくれる学問だと思う。いわゆる哲学者として名を残している奴らってその視点が奇抜というか独自で、既存の常識とは違う世界の見方を教えてくれるから素敵だよね。
では、思想と哲学の違いは
で、たまに思うのは思想と哲学って何が違うのかってこと。何となく、思想は社会的で他者に向けて開かれていて、哲学は本当に個人的なことについて執拗に考えているところが、両者の異なる部分ではないかと。
例えばフランスの哲学者、ミシェル・フーコーの功績はポスト構造主義の中の一つの思想になっている。これがでは哲学なのかって考えると、彼の業績が何を哲学してたのか、浅学の俺にはよくわからん。しかし、彼自身は哲学してたんだと思う。それは単に俺の哲学的問題意識とのズレにすぎない。フーコーにとっては様々な著作に残したそれらは、自身にとっての哲学だったはず。
というふうに考えると、ある哲学者が外向きに自分の哲学を開陳し、その考え方が世に広まることによって、彼らの考えを社会活動の何がしかに当てはめて利用しようと考える人が出てくる。この時が哲学者が己のためにつくり上げた概念が思想になる瞬間ってことなんだろうな。
哲学者、永井均氏
で、俺の好きな哲学者に永井均さんがいる。この人のやっていることは、思想にはならない。まさに純粋の、むき出しの個人的哲学って感じだ。でもやっぱ、これこそが哲学でしょ。と思っちゃう。永井均さんの哲学については、ものすごく影響を受けていて…、というか、この人が哲学をしてくれていたおかげで、俺は自分の存在に対する違和感と言うか、このわけのわからない在り方をしている現実の自分に対して、「なるほど、そういうものなのか」と思えるようになった。そういう意味で、計り知れない恩恵を受けたのだ。
なので、このブログでたびたび言及しているクローンだのを引き合いに出して、その対象となる映画作品を語っていることは、永井さんの哲学の入り口の部分みたいな、ほんのさわりの、永井さん自身の原初的な疑問ことについて触れていると自分では思っている。
というか、厳密にいえばその原初的な疑問てのは、俺個人のものでもあるのだが。永井さんの哲学を知らない人には何言ってるのかわからないと思うけど、下記の投稿記事を流し読みして何か感じることがあったら、ぜひ読んでみることをオススメしたい。
しかし、この永井氏の哲学を社会活動の何かに適用すれば、それはきっと、思想になるだろう。それはフーコーの哲学が思想になるのと同じことだ。
「批判するなら改善案を出せ」って何かおかしくないか
で、思想家の仕事とか役割って何なんでしょうか。例えば、資本主義は糞だとかぶっつぶれるべきとか誰かが言ったとすると、「じゃあ、それに代わる何かをきちんと提示しろ」とかいう意見が出てくるのを見かける。
でも、社会に対する別のものの見方や、その人独自の思考の軌跡を提示するにあたって、既存の世の仕組みを批判することそのものが目的になってたって、別によかぁないだろうか。改善策がなくてもいいのではないだろうか。
なぜならその批判した行為そのものが、社会であり、他者も含めたこの世界をよい方向に導けないかと考えた末の結果になっていると思うから。
重要なのは別の視点を提示すること
「批判するなら改善案を出せ」。そういうんじゃないよね。改善策とかではなくてさ、何かの問題意識を提示することであったり、違う視点から物事を見るための道筋を教えてくれることそのものが重要なんだ。
確かにある哲学者なり思想家は世の中を批判しているかもしれない。だけど、その批判している内容そのものを、改善案を出せと批判している人たちは、そもそも考えたことすらないだろって思うね。概念を、新しい見方を提示することが彼ら彼女らの仕事(趣味)? なのだ。
もちろん、新しい見方を提示していることの中身を批判的に言及するのは悪いことではない。その批判が新しいものの見方をさらに深める可能性もあるし、批判そのものの中に新しい見方がうまれるかもしれないから。しかし、その新しい見方が、世の中を批判しているだけで、改善策がないっていう批判をする人(ややこしい)は、それこそ人に頼ってばかりで何も考えない典型であろうって思うよ、うん。…人のこと言えないがね。
https://hanbunorita.com/1/category/personal-story (カテゴリ:存在とかへの私的な疑問)
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