牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件
作品内で描かれる舞台の時代背景を知らない人でも、この映画は楽しめるはずだ。鑑賞した人間の心になんらかの楔を打ち込んでくるだろう。楔を打たれるために、台湾の歴史だのなんだのを必ずしも知っている必要はない。ネタバレは少なめ。
― 2017年公開(1991年製作)台 236分―
解説とあらすじ
解説:男子中学生によるガールフレンド殺害という実際に起きた事件の再現を通して、1960年代当時の台湾の社会的・精神的背景をも描いていく青春映画。「海辺の一日」「恐怖分子」など台湾ニューウェイヴ映画界の旗手として知られる楊徳昌(エドワード・ヤン)監督の長編第4作目であり、日本における彼の初の劇場公開作。製作はユー・ウェイエン、エグゼクティヴ・プロデューサーはジャン・ホンジー、脚本は楊徳昌、ヤン・ホンヤー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン、撮影はチャン・ホイゴンが担当。91年東京国際映画祭インターナショナル・コンペティション部門審査員特別賞、国際批評家連盟賞受賞。1992年4月25日より188分版(配給:ヒーロー)が、1992年6月5日より完全版が公開されている。2017年3月11日より完全版の4Kレストア・デジタルリマスター版を上映(配給:ビターズ・エンド)。(KINENOTE)
あらすじ:1949年、中国大陸での国共内戦に敗れた国民党政府は台湾に渡り、それに伴って約200万人も台湾へと移住した。1960年、そのように移住した張家の次男スー(張震)は、中学の夜間部に通っており、小公園と呼ばれる不良少年グループに属するモー(王啓讃)、飛行機(柯宇綸)、ズルらと同級生だった。スーは少女ミン(楊静恰)と知り合う。彼女は小公園グループのボス、ハニー(林鴻銘)の彼女という噂だ。ハニーは対立する軍人村グループのボスとミンを奪い合い、相手を殺して台南へ逃げたという。ある時スーはミンと一緒にいたと軍人村グループに因縁をつけられるが、最近スーのクラスに転校してきた軍の指令官の息子マー(譚至剛)がひとりで助けてくれた。スーはミンへのほのかな愛情や、マーとの友情を育んで日々を過ごしていく。(中略)(KINENOTE)
予告動画とスタッフ・キャスト
(BITTERSENDinc)
監督:エドワード・ヤン
時代を越える普遍性を有した映画
まず、この映画はイイ作品だと思う。
なぜか。この作品が描いている時代の台湾の歴史的背景とか、そんなもんは知らなくて何の前知識もなく見に行っても、鑑賞した人の心に何らかの楔を打ち込む映画だからだ。
前知識がない人間が見ても、素晴らしいと思わせる力があり、作品そのものに強く訴えかける何かを感じさせる。それがこの作品が芸術作品として優れている点なのだ。つまり、時代を越えた普遍性を有した映画ということだ。
作品の強度は、時代背景で決まるわけではない
では、鑑賞により楔を打ち込まれた人間はどうするのか、それは様々である。この映画の解釈について考え、この映画の持つ歴史的背景云々を知ることも、大切ではあるだろう。この当時の時代がどうであり、本省人や外省人がどうだ、それにより主人公はこうだ、彼の父親はこうだ――というふうに考えることなんかも面白いは面白いし、もちろん重要だとは思う。
でも、これこれこういう時代に生きた人たちはこうならざるを得なかった――的な解釈をしちゃうと、この映画の持つ普遍性みたいなもんが限定されてしまわないだろうかとも思う。
時代を越えた普遍性のある作品てのは、描かれている時代がいつだろうが、古典的名作としていつまでも残るもんである。何千年後に生きる人間に届く何かを秘めていて当然なのである。そうではないですかね。それが作品の強度なのだ。
だからやっぱり、この時代の~がとか、あの時代は~とか、さほど重要ではないのである。たかが人間の数千年の歴史の中で、人の営みとしてやっていることに、大した進歩なんてないのだから。どんなに科学技術が発展しようが、人心はさほど成長しない。だからこそ、例えばローマ時代や平安時代に作られた作品も、人間は楽しめるのである。心のありようみたいなものに、大して変わりはないのだから。
ある少女を巡る、少年たちの物語
ということで、この作品は4時間ほどあるわけだが、その長さをさほど感じさせない面白さを有している。画面が暗くて何が起こっているのかよくわからなかったり、一見しただけでは登場人物に区別がつかなくて混乱しちゃったりする部分はあるし、細部について分からないところもあったけど、大人の世界を排除して、少年少女の群像劇のみをクローズアップして見るなら、「小明」というファムファタールを巡る話であった。
あの結末なんかは、そこいらで起きているストーカー殺人的なものに通じるところがあると思わせた。衝動的な殺人でも、加害者が被害者と交流のあった顔見知りである場合は、それなりの納得がいく動機と理由があるのだ。当たり前だが。
この映画ではラストにいたるまでに主要人物たち各人が丁寧に描写されているからこそ、観客はあの殺人にいろいろな考えや解釈を持つわけだが、その辺で報じられているストーカー殺人の犯人や事件も、もしかするとこの映画のように作りこまれた作品として鑑賞したならば、犯人の行為を一方的にどうこう言うことはできなくなるのかもね。思春期の子どもだろうが、中年だろうが、やっていることは同じなわけだし。中年のほうが性質が悪いのは認めるにしても。
名前からして謎の男
個人的によくわからないのは、「ハニー」という少年(青年か?)。あの格好についてどうこう言うのはやめておくが(笑)、なぜわざわざコンサート会場に姿を現したのか。別の地に移る的なことを言ってたと思うんだが。山東たちのグループと和解しようとしている的なセリフあったか? 仮に和解を考えたのだとしたら、会場の外での言動が挑発的すぎる。実際の物理攻撃は単なる平手打ちだが(笑)。そしてその後、山東と歩いているとき、なんであんなに油断してたんだろうか。行動がよくわからん人だったのである。あだ名もどうかしている(笑)。
ただ彼は、子どもたちの中では、最も大人に近い子どもであっただろうと思った。生きることの絶望を知っているという意味で。
大人も子どもも、みんな無力
ラスト近くになって懐中電灯を返却して代わりに短刀を持つことになったあの少年。そこに至ることになる前に、どんな支えや希望があればよかったのか。誠実に、正直に生きても世界は変わらないし、大人は子どもを助けられるほど強くもないのである。
思春期の頃の自分も、大人から見ればこの映画の小四やハニーのようにわかりづらい人間に見えたのだろうか。この映画を観ていて、大人と思春期の子どもが、同じ生物でありながらまるで別の生き物のように感じさせられた。
でも、小四と父親の言動を見ていると、やっぱりつながりのある親子ということも痛感させられる。大人も子どもなのである。しかし、思春期は遠い過去。子ども以上にくたびれてしまった子どもなんである。だから何もできない。無力なのだ。
個人的に、台湾映画といったらこの作品。これも青春映画です↓
子どもと大人が争う映画↓
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