気付いたら100記事以上投稿していた。PVとはまだまだだけども、まぁ楽しんではいる。てなわけで、100記事突破記念としてブログやるかやらないか考えている人に、個人的に感じたブログのメリット――というか、記事を書くことで得られる価値について紹介します。
書く行為にはメリットがある
このブログでは主に映画作品を取り上げている。なぜなら映画が好きだからである。でも、映画ブログのつもりはなくて、自分の私的見解をいろいろ投稿できればいいなと思っている。でも、なぜかほとんど映画の話しかしていない(笑)。
上記は俺の話だけども、映画ブログをやりたいんじゃないって人も、記事は書かなきゃならんですよね。ただ、文章書くのって本当に面倒くさいし難しい。だけど書かなきゃブログにならん。
このブログは誤字脱字もあるし、時には大した推敲もせずに支離滅裂な内容を投稿しちゃうこともあるけど、俺は一応、文章を書くこともある仕事に就いている。そうした経験も踏まえて偉そうに言わせてもらうと、書く面倒を楽しめるようになれば、書くことを通じて様々なメリットを得られます。今回はそこを紹介したい。
自分自身について新たな発見が
文章を書くことには、「書く」という行為を通じて自分自身に対して新たな発見をもたらすことがある。これがメリットの1つだ。
例えば映画を見たときに、単に「おもしろかった」だけでは記事にならない。だから、なぜ面白かったのかなどと、あれこれと思い浮かんだことを書く。筆を動かすことによっていろいろと作品に対して考えることになる。
特に書くこともないなぁ。なんて思っていても、作品に対すること、それに派生して想起された思考内容について思いつくままにキーボードを打っていると、「なるほど、この映画はこういう観かたもあるんだな」とか「自分はある事柄について、こんなことを考えていたんだな」などという自分に対する発見があったりする。
最近では、下記の記事でそんな体験をしました。
これは、何も書くことがないと思っていた作品に対しても、思いつくままに筆を動かしたことで偶然得られるプラスな体験である。中には本当に何も書くことがない作品もある。例えば、コメディとかは非常に書きづらい。面白いけども平凡で尖った部分がない映画も書きづらい。一方、つまらない映画は突っ込みどころが多いし、文句がたくさんあるので書きやすい(笑)。
対象は映画でなくてもいい。クリエイティブな作品であれば何でもそうだし、何かを見聞した体験でもいいし、ともかく書く対象について自分がどういう感想を持ったか、適当に思いつくままに書いてみる。すると言葉が溢れてくることがあるのだ。
記録によって、過去の自分の考えを知れる
さらに、何かに対して自分の意見なり考えなりを書き残しておけば、後の自分自身が客観的視点に立って、それを読み返すことができる。すると、「自分はこんなこと考えていたんだな」とか「作品、○○について、こういう解釈をしていたのか」という気付きを得られることも。特に後者については、同じ作品を後に再鑑賞した際に、全く別の感想を得ることもあるので、同じ作品について異なる楽しみ方をできたことになり、これもまた発見なのである。
また、書き残すことによって作品の内容が記憶に残りやすくなる。感想がなくても何とか記事にしようといろいろ考えるので、嫌でも作品に対して関わる深度が増すからだ。記録をしておくことのメリットはそこにもある。つまらない作品を「つまらなかったな」と思ってそのまま忘れてしまうと、2度目の鑑賞をしてしまい、途中で「あ、これ観たことある」という経験をすることに(笑)。再鑑賞したい作品のみ鑑賞できるようになるのである(書いても忘れることもあるが)。
他者に対する理解が深まる
もう1つのメリットは他者に対して理解が深まるケース。例えば誰かに聞いた話を文章にすることで、話をしてくれた他者が言ってたことの意味をより深く理解できる瞬間がある。「ああ、○○氏はそういうことを言いたかったんだ」と書いている瞬間にわかることがあるのだ。
なぜそういうことが起こるかについて説明する。他者が発した話し言葉をきちんと読める文章にするには、話者の喋った内容を、論理だった筋道に再構築する必要がある。どうしてかというと、人間が言葉で語った内容てのは、文字起こしをして読んでみるとよくわかるんだけど、実はあまり細部のない、ものすごくアバウトで抽象的なことを話しているのである。
だから、話したことを文章にまとめるには、そのアバウトで抽象的な内容を、話者が何を言わんとしているのか推測したうえで補足したり、ある用語については調べたりして追記する必要があるのだ。こういう作業をしていると、相手の言おうとしていた内容を、話を聞いていた時以上に、より深く理解できることがあるのだ。
上記はたとえなので、別に他人の言葉をテープに残す必要なんてないんだけど、ある他者、有名人でも何でもいいけど、その人に対して何らかの感想なり意見なりを持ったとして、それを記事にしたとする。
すると、その記事を書くという行為を通じて、対象となる他者に対し自分がどういう評価をしているのか、またはその他者が実は、どういうところに美点があって、どんなところで自分と噛み合わなさがあるのかなどを自分の内側から見出せる瞬間があるのだ。
これはある意味では、自分を知ることにもつながるんであるが、ともかく対象となる他者について理解が深まる。理解が深まるという表現に語弊があるなら、なんというか、距離が近づくとでも言えばよいか。
受身な行為が、能動的な行為に変わる
さらにもう1つ。映画でもなんでも、ある作品を鑑賞するというのは、言ってみれば受身の行為である。何かの作品に向き合うことが趣味で好きなのだから卑屈になる必要はないものの、「~鑑賞」的な趣味って、例えばスポーツをプレーすることだの料理をすることだの旅行だのといった趣味と比べると、何か暗さを感じてしまうところも。気にする必要ないんだけど。
でも、こうして自分で記事として記録するためにいろいろと考えて人目にさらされる場に発信することは、能動的といえる。その行為そのものも楽しいし、もしかすると、こうした記事を通じて他者と新たな接点ができ、コミュニケーションにつながる可能性もある。自分の趣味世界に能動的な広がりを持たせる可能性が出てくるのであって、これもまたメリットなのである。
最後に個人的なことを・・・。ブログを始めて、映画のことばかり考えるようになった。ブログに記事を上げるために映画を観ているのか、映画が観たいからみているのか、その辺はよくわからなくなっているので、メリットとは言えないかも(笑)。
今のところ、楽しくはやってるからいいんだけど。ということで、書くことが何もない。と書くのを躊躇っている人ほど、とにかく何でもいいから書いてみると良いと思います。
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