スポンサーリンク

映画『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』ラストに希望はあるか

メルキアデスエストラーダの3度の埋葬
スポンサーリンク

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

テキサスの田舎町とメキシコとの国境付近、そしてメキシコの村、さびれた土地で日々を暮らす人々の絶望感みたいのが味わえる。物語は淡々と進むため退屈に感じる人もいるかもしれないけど、土地に暮らす人々やそこを通過していく主人公たちの姿に最後まで引き込まれた。ネタバレあり。

―2006年公開 米 122分―

スポンサーリンク

解説とあらすじ

解説:親友の遺体を埋めに行くカウボーイの旅を描いた異色ドラマ。監督・製作・主演は「ミッシング」などの主演で知られるトミー・リー・ジョーンズで、これが監督デビュー作となる。脚本は「21グラム」のギジェルモ・アリアガ。撮影は「スタンドアップ」のクリス・メンゲス。音楽は「アイ,ロボット」のマルコ・ベルトラミ。共演は「25時」のバリー・ペッパー、「ハリウッド的殺人事件」のドワイト・ヨーカム、「ダンシング・ハバナ」のジャニュアリー・ジョーンズ、「ハイド・アンド・シーク/暗闇のかくれんぼ」のメリッサ・レオ、「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」のフリオ・セサール・セディージョ、「アモーレス・ペロス」のヴァネッサ・バウチェ、「沈黙の断崖」のレヴォン・ヘルムほか。2005年カンヌ国際映画祭最優秀男優賞、最優秀脚本賞受賞。(KINENOTE)

あらすじ:米テキサス州。メキシコ人カウボーイのメルキアデス・エストラーダ(フリオ・セサール・セディージョ)は、ある日突然、山間にある放牧場で銃弾に倒れる。彼の遺体を目にした同僚のカウボーイ、ピート・パーキンズ(トミー・リー・ジョーンズ)は、生前のメルキアデスと交わした、彼が死んだら故郷ヒメネスへ運んで埋める約束を思い出した。まずピートは、この殺人事件を闇に葬ろうとする地元警察官に憤りを感じ、自ら必死になって犯人を捜す。そして、赴任してきたばかりの国境警備隊員マイク・ノートン(バリー・ペッパー)がメルキアデスを誤って撃ち殺したことを突き止めた。ピートはマイクを拉致し、メルキアデスの遺体をラバに担がせ、以前メルキアデスに見せられた故郷ヒメネスで家族と撮ったという写真と地図を頼りに、メキシコへと向かう。マイクの誘拐を知った警察と国境警備隊に追われながら、長く苛酷な旅が続く。その間にマイクの妻ルー・アン(ジャニュアリー・ジョーンズ)は、ひとりテキサスの町から去ってしまった。そしてようやくピートは、写真に写っていたメルキアデスの妻であるはずの女性を見つけるが、彼女には別の夫がおり、メルキアデスのことを全然知らないという。しかも地元の住人たちは、ヒメネスという村など存在しないと言うのだ。困惑するピートだったが、とある場所をヒメネスだと思い込み、そこでメルキアデスの葬儀を行なう。そしてマイクを釈放すると、ひとり馬に乗ってその場を離れるのだった。(KINENOTE)

スタッフとキャスト

監督:トミー・リー・ジョーンズ
製作:リュック・ベッソン/トミー・リー・ジョーンズ
出演:トミー・リー・ジョーンズ/バリー・ペッパー/ドワイト・ヨーカム/ジャニュアリー・ジョーンズ

親友を故郷に葬る話

トミー・リー・ジョーンズが監督と主演を務めた作品。主人公のテキサスに住むカウボーイ、ピート(トミー)はメキシコから不法入国してきたメルキアデスと親しくなり、共にカウボーイとして働く。メルキアデスは自分が死んだら故郷のヒメネスに遺体を運び、家族に自分の死を報告して埋葬してほしいとピートに頼む。ピートは「俺のほうが年上だし先に死ぬよ」と笑いながらも、仮にそんなことが起きたら、彼を葬ることを約束をするのだ。

そして、ピートはそれを実際に行うことになる。ある日、国境警備隊員としてテキサスにマイクという男が赴任してくる。彼は、ある偶然でメルキアデスを射殺してしまうのだ。地元の保安官は国境警備隊の隊長に頼まれて、メルキアデス殺しの事件を隠ぺいしようとする。しかし、ピートは強引に殺した犯人を調べ、マイクがメルキアデスを射殺したことを突き止める。

マイクを逮捕をしない保安官に業を煮やしたピートはマイクを拉致。メルキアデスの死体を掘り起こし、彼の故郷に向かうべくマイクを引き連れてメキシコを目指す――というのが大体のあらすじ。

田舎に暮らす人々の絶望

この作品には、人生に対する絶望みたいなものが風景や人物の振る舞いや表情によって描写されているように感じた。それは鑑賞者たる俺の眼を通して感じるものなので、他の人が観たらそうはならないのかもしれんが、少なくとも俺にとってはそうだ。

まず、テキサスとメキシコの田舎町の乾いた大地が、人の心から潤いを奪っているように見える。その潤いとは、人生に対する希望だ。それが枯れつくした人々しかこの作品の舞台となる土地には住んでいない。

主要人物たちの心も乾いている

保安官と国境警備隊、盲目の老人。メルキアデスの故郷近くの村人。みんなそうだ。彼らに目の輝きはない。くたびれている。それは主要な登場人物たるピート、マイク、マイクの奥さんのルーも変わらない。

まず、マイクとルー。2人は高校の同級生で、高校時代はスター扱いだったそうだ。そんな2人がそのまま結婚をしてはみたものの、輝かしい人生にはなっていない。マイクは国境警備隊員として働くものの、いつも仕事中にエロ本を読んでいる。奥さんとセックスする時も、ただ何となくしているだけ。だから相手の穴にブチ込んでサッサとすましちゃう。あんな美人な奥さんなのに、なんてもったいないことするんだろうと思うが(笑)、倦怠期に入った男女なんて、あんなもんだろう。

いっぽうの奥さんも、日々を退屈そうに過ごしている。そして、夫が殺しをしたことを知って、自分が夫のことをさほど愛していなかったことに気づく。だから、ピートに連れて行かれた夫を捨てて、退屈な町を逃れて別の街に去っていくのだ。

それを見送るのが食堂で働く奥さん。この奥さんは食堂でコックをする旦那のことを愛しているらしい。愛しているらしいが、地元の複数の男とセックスをしている。彼女は地元の男たちの性欲のはけ口であり、希望にもなっている存在だ。彼女も旦那の他に相手をしてくれる男たちを憎からず思っている。

その主な相手はピートと保安官のようだが、2人の男は彼女のことを単なるセックス相手とは考えていないようだ。だが、彼女はそうでもない。実は旦那のことをそれでも愛している。だが、心は乾いている。だから、親しくなった若くて美しいルーが町を去っていくのを見送る姿には、羨望のまなざしが見てとれる。自分も若かったら、こんなところから出ていくのに――そう思っているように感じた。

もちろんピートも絶望している

ピートも絶望から逃れられていない。メルキアデスとの約束を守るところには男気を感じるものの、その行為の強引さは狂気すら帯びている。彼は、自暴自棄になっているのではないか。なぜなら、人生に何の希望も持っていないから。彼はメキシコについてから、酒を飲んだ勢いなのか決意のうえでなのか、食堂の奥さんに電話をかける。そして、なんとプロポーズをするのだ。でも、奥さんは旦那を愛していると答えて、電話を切ってしまう。

テキサスにいた頃は、なかなかのプレイボーイぶりを見せていたピートだが、実は孤独な初老の男だったのである。寂しい男だったのである。しかも、食堂の奥さんにまで振られてしまったら、もうテキサスに戻る意味もなさそうだ。

メルキアデスは嘘の中に希望を見出した

そしてメルキアデス。彼も孤独な男であったことが、ピートたちがメキシコについてからわかってくる。彼がピートに見せた家族写真。それは家族ではなかったことが判明する。彼は嘘をついていたのだ。虚構の世界をつくりあげ、そんな妄想を拠り所に生きてきた、孤独な人間だったのだ。

それを知ったピートは、彼が話していた嘘の故郷の美しい風景を探すことを諦める。そして、彼のつくり上げた虚構の風景とはかけ離れた場所を、彼の故郷ということにして3度目の、最後の埋葬をする。ピートはメルキアデスの虚構にある種の希望を見出していたが、それは単なる作り話だったことを認め、その場を1人で去っていくのである。

彼はどこに消えていったのかわからない。向かう先はテキサスではなく、死に場所になるのかもしれない。それとも、メルキアデスの虚構と決別したことをきっかけに、最後まで自身の孤独と付き合いながら生き続けるのか。

実は希望も描かれている

そう考えてみると、実はこの物語で未来に希望があるのは、若いマイクとルーなのかもしれない。特にマイクだ。マイクは旅の途中、ルーのことを思って涙を流す。彼は自分があの美人の奥さんを、どれだけないがしろにしてきたかに気づくのだ。だが、それに気づいてももう遅い。とはいえ、気づいたことは大事だ。

もう一つ、ピートに銃を突きつけられ、彼はメルキアデスを過失とは言え殺してしまったことを、遺体の前で悔いる。その時に彼は、自分がいかに乾いた人生を生きてきたかに気づくのだ。機械のように何も考えずに生きてきたことに気づくのだ。もし、もっと早く気づいていたら奥さんを大事にしただろうし、メルキアデスを殺してしまうこともなかったかもしれない。

孤独と向き合うことで希望を見出す

しかし、罪を認めたマイクは、前を向いて生きる力を得ている。それが、去っていこうとするピートにかける「1人で大丈夫なのか?」という言葉だ。彼が初めてこの作品において、他人を気にかけて発した言葉である。彼はピートに無理やり引きずりまわされた旅の中で、旅先の人々との触れ合いの中で、孤独と付き合って生きる力を身につけたのだ。

そう考えるとこの作品の主人公はマイクで、彼の成長を描いたロードムービーだったとも言えるのである。

てなことでこの作品は、乾いた大地が人生の絶望を感じさせ、逃れられない現実を鑑賞者につきつけてくる。それはつまり、どこに住んでいようが、どんなに周りに人がいようが、本質的に、人生というのは孤独なものなのであるということを示唆しているのだろう。

そして、その絶望と向き合って生きていくことが、希望になるのだと言っているように思える。その希望こそが、このブログのテーマ、人生を半分降りるということにつながっていくのだ。個人的にはそんな作品であった。

書籍 栗原康『村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝』感想 やっちまいな!
アナーキストの大杉栄の奥さんであった伊藤野枝なる人物を紹介しつつ、「あたらしいフェミニズムの思想をつむいでいきたい」という内容である。タイトルにある「村」とは、世にはびこる常識によって生きづらくなっている今の社会のことを示しているらしい。そんな村社会に火をつけて、バカになって助け合おうということか。やっちまいな! ―岩波書店 2016/3/24―
KINGカズはなぜKINGなのか? 自分が自分の人生の王であることを知っているから
彼を特集したスポーツ雑誌、Number922号を読んだこともあって、カズの話をしつつ、続けられること、何かを達成するにはどうすればいいかってことを考えたい。 人生の楽しみかたをカズは知っている。だからこそ、カズはKINGなのだ。他人の奴隷にはならない、自分の人生をコントロールできる、王様なのだ。

その他、人生を半分降りることに関する記事↓

人生半降り

人生は半分降りたほうが楽しいのではないか(ブログタイトルなどはプロフィール参照)。書籍や映画や日々の雑感から、楽しくいきるためにいろいろ考える

コメント

タイトルとURLをコピーしました