美しい星
SF的な内容を期待すると肩すかしを食うものの、そういう作品ではないので期待しないほうがよい。この映画では細部によくわからん部分がある。中でも一番大きな謎は、こいつらは結局、宇宙人なのか地球人なのかどっちなの? ということだ。でも、それってどうでもいいことなんだろうと思う。ところどころ笑えるし、奥行きを感じる面白さのある作品でした。ネタバレあり。
―2017年 日 127分―
解説とあらすじ
解説:三島由紀夫による異色のSF小説を「紙の月」の吉田大八監督が映画化。テレビ気象予報士の父・重一郎、フリーターの息子・一雄、女子大生の娘・暁子、母・伊余子の大杉一家はある日、火星人、水星人、金星人、地球人として覚醒し、地球を救う使命を託される。出演は、「お父さんと伊藤さん」のリリー・フランキー、「PとJK」の亀梨和也、「バースデーカード」の橋本愛、「家族はつらいよ」の中嶋朋子。(KIENOTE)
あらすじ:当たらないテレビ気象予報士の父・重一郎(リリー・フランキー)、フリーターで自転車便のメッセンジャーをしている息子・一雄(亀梨和也)、美人すぎて周囲から浮いている女子大生の娘・暁子(橋本愛)、心の空虚を持て余す主婦の母・伊余子(中嶋朋子)の4人家族の大杉家。彼らはある日突然、火星人、水星人、金星人、地球人として覚醒し、“美しい星・地球”を救う使命を託される。目覚めた彼らは奮闘を重ねるが、世間を巻き込む騒動を引き起こし、傷ついていく。そんな一家の前に現れたひとりの男が、地球に救う価値などあるのかと問いかける。(KIENOTE)
予告とスタッフ・キャスト
(映画ナビ)
監督・脚本:吉田大八
出演:リリー・フランキー/亀梨和也/橋本愛/中嶋朋子/佐々木蔵之介
期待に違わぬ面白い作品でした
立川シネマのレイトショーで観てきた。すげぇ空いてて快適だったなぁ。5月から公開される期待の作品の1つってことで鑑賞。原作はずいぶん前に読んだことがあって、三島由紀夫っぽくないなぁなんて読後感を持ったものの、内容は全く覚えてなくて、映画化されたということで気になってたので観てきたのである。結論から言うと、すごく面白くて満足できる作品でした。
わからなくても、面白い作品です
よくわからないことを先に挙げると、登場人物の重太郎、その息子の一雄、娘の暁子、それと黒木は自分が別の惑星から来た存在だと、信じているのか振舞っているのかわからないけども、そう主張するのである。しかし、結局はどっちかわからないまま終わる。ラストもそうだし、黒木を除く各々が覚醒するシーンもしかり。覚醒するに至る過程においての不可思議な体験も。それぞれが結局なんだったのかよくわからない。
でも、それでいいのである。重要なのは、この作品においての母親の役どころだ。本作において、母だけは単なる地球人のままだ(原作では違ったと思うが)。彼女が家族に対して言っていることも常識的だ。ところが、彼女が劇中でよりどころにするものは、いかがわしい水を売る仕事なのである。
そういう意味で、実はあの母親もまともではない。彼らはそれぞれ、よるべなき生活をしている。家族ではあるものの、何の心の交流もない乾いた関係であることが冒頭で描かれる。そして物語が進む中で、それぞれが生きるための拠り所を得て、その道に邁進していく話なのだ。そしてラストのああいう内容につながる。
大事なことは、あのラストで親父が死んだのか、宇宙に行ったのか、それとも、宇宙船を見上げている方の親父が誰なのかとかいうことではなく、あのシーンに至るまでに描かれた、それぞれの心の動きと成長であり、彼らが家族として各々の存在の重要性? にあらためて気づき、歩み寄っていくことにあるのだ。
自分の範疇を越えた言葉を語れるのか
黒木という人物は、一貫して人間の常識から上位にいるようなものの見方をする存在として描かれる、しかし彼の言っていることは、結局は人間の埒外には出ていない、人間の言葉である。
彼の主張は、言われてみると誰でも理解できるしその通りだと思えるもので、むしろ誰もがそんなことわかっているよ。という内容なのだ。でも誰もが、どこかで直視しないで、考えないようにしているような内容ではないか。
具体的に言うと、彼は地球温暖化という問題については、どうでもいいと思っているのである。人間の営みが自然を破壊しているなんて考えるのは、おこがましいことなのだと言っているようにも思える。なぜなら、それは人間の尺度で考えた地球環境の汚染であり、すなわち、人類を滅ぼす可能性のある自傷行為的な環境破壊に過ぎないからだ。
そんな環境破壊は、実は地球という自然にとっては、宇宙にとっては、どうだったいいことなのである。人間が地球環境を破壊しても、地球にとっても、宇宙にとっても、実は毛ほどのダメージも受けない瑣末な出来事なのである。というか、そんな人間ごときの短い時間や言葉の範疇で、自然は存在していないということだ。
そういうことを言い続ける黒木の主張や考え方が上から目線に見えるのは、自分も含めた人間(存在?)に何の希望も抱いていないからなのだろう。自分も同じ場所からしか言葉を使えないのに、ああいうことを言うと、なぜか浮世離れした人間に見えてくるのである。
なぜそうなのか。それは、俺も含めて人間というものが、自分の人生の、自分の生きるスパンの中でしか物事を選択できない自分本意の存在だからではないか。黒木の言葉はそういう意味で、文学青年的であり、才気走った中学生の考え方のように見える。
誰が物事の基準を決めてくれるのか
しかし、だからこそ人の心に届く直言にもなるのではあるまいか。そして、あれ以上のことは言葉では言えない。言葉以上のことを言っているが、それが言葉で理解されたときに、言葉の中の理解に収まる。ーーそうならざるを得ない。そういう意味では、彼は全くの無力な存在なのである。
いったい誰が事物の美しさと、美しくなさを決めるのか。歌舞伎町の喧騒を朦朧とした意識で眺めた重太郎。彼が思う美しい景色。その景色を彼が美しいと思えるための基準を決めたのは誰だったのか。
善悪を越えた言葉を獲得するために、みんな人間であることをやめよう。
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