ジョー・ブラックをよろしく
ラブロマンス映画。なかなかいい話だなーと思う。思います。だけどこれ、長すぎでしょ。こんなに長くする必要あったんだろうか。ネタバレあり。
―1998年公開 米 181分―
解説とあらすじ・スタッフとキャスト
解説:死神と人間の女性が紡ぎ出すファンタスティックなラヴストーリー。監督・製作は「セント・オブ・ウーマン夢の香り」のマーティン・ブレスト。脚本は「フリントストーン」のロン・オズボーンとジェフ・レノ、「ジュニア」のケビン・ウェイド、「訣別の街」のボー・ゴールドマン。撮影は「大いなる遺産」のエマニュエル・ルベズキ。音楽は「モンタナの風に抱かれて」のトーマス・ニューマン。美術は「カジノ」のダンテ・フェレッティ。編集はジョー・ハッシングとマイケル・トロニック。衣裳は「フェイク」のオード=ブロンソン・ハワードとデイヴィッド・ロビンソン。出演は「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のブラッド・ピット、「バスキア」のクレア・フォラーニ、「マスク・オブ・ゾロ」のアンソニー・ホプキンス他。(KINENOTE)
あらすじ:大富豪パリッシュ(アンソニー・ホプキンス)のもとに突如客がやって来た。ジョー・ブラック(ブラッド・ピット)と名乗る彼、実はパリッシュを迎えに来た死神で、ついでにパリッシュを案内人にして人間の世界を見に来たのだった。娘のスーザン(クレア・フォラーニ)は彼の姿を一目見るなり驚く。ジョーは街で意気投合した青年にそっくりだったからだ。それもそのはずジョーは死んだその青年の肉体を借りてこの世界に降りてきたのだ。その後二人は徐々に愛を深めていく。人間の恋愛を知ったジョーは彼女をあの世に連れて行きたいと葛藤する。苦悩の末ジョーはパリッシュとこの世を後にする。そして彼らと入れ替わりにスーザンと意気投合した青年が彼女の前に姿を現すのだった。(KINENOTE)
監督:マーティン・ブレスト
出演:ブラッド・ピット/アンソニー・ホプキンス/クレア・フォラーニ/マーシャ・ゲイ・ハーデン/ジェフリー・タンバー/ジェイク・ウェイダー
ネタバレ感想
ともかく長い
上のあらすじ引用読んでください。ラストまで書いてあります。KINENOTEの解説とあらすじって、作品ごとに淡白なのと冗長なのの差が激しすぎなんだよな。この作品の場合、3時間も尺があるから、もう少しいろいろ書き加えることもあると思う。思うんだけど、作品内でおきた大筋は書けているとは思うので、長さとしてはちょうどいい文量だ(笑)。
ということで、ともかく長い映画だ。それぞれのシーンをもっと圧縮していけば、90分で劇終できると思うんだけど。なんであんなに長くしたのか、よくわからない。死神とスーザンの交接シーンなんて、あの長さは必要ねぇと思うんだけどな。
ともかく、全部長い。テンポが悪いわけではないけども、長い。それでイライラしちゃうのは、時間に追われてすごしている俺の問題なのかもしらん。とか思っちゃうほどに長いのである。3時間をこえる映画なんて珍しくないし、そういう作品何本も観てるけど、やっぱりこの作品においてはその長さの意味が、俺にはようわからんのであった。
これ以上長さをディスっても仕方ないので次の話題に移る。
結末で戻ってくるブラピの中の人
結末は事故死した本来のブラピの中の人と、スーザンが再会してハッピーに終わる。まぁそうなるだろうなぁとは思うが、スーザンは超能力者だろうか。どうして中の人が変わったことがわかったんだろうか。わかるんだったら、恋をした時点でわかるんじゃないかなぁと思うんだけど、そういうもんではないのかな。それとも、中の人が変わったこと、特に気づいていない!? だとしたらあの描写、ちょっと変だよな。
あと、どうしてブラピの最初の中の人は、ラストの再会シーンで名を名乗らないんだろうか。スーザンも、何で聞かないんだろうか。そもそも、どうして最初のカフェであれだけ惹かれあってたのに、お互いの名前も知らずに去れるんだろうか。
人間的すぎる死神
死神が人間の営みというか、ものの考え方みたいなもんに興味を持っちゃうのは別にいい。でも、この死神ってある意味では神様みたいな存在。そんな存在が「孤独は嫌だ」とか言っちゃったら、人智を超越した存在としての価値がなくなってまうんではないかなぁ。
一応物語終盤で、スーザンを自分の世界に連れて帰ると述べ始めた死神が、主人公のビルの逆鱗に触れるシーンがある。ビルは人間界で生活したせいで死神に人間的な善悪の尺度が染み付き始めたことを指摘していた。
しかし、それを理解できちゃったら、というか、人間の善悪の基準で生きてしまったら、死神は死神でいられなくなっちゃって、単なる人間になっちゃうんじゃないかと思ってしまった。人間の善悪の範疇にない仕事ができるから死神であり、善悪で物事を判断せずにいてこその存在だと思うんだけどな。
とか、そんな物語上必要な設定だったことについて腐しても意味はない気もするのだが、個人的な考えとしてはそういうもんだと思うので、文句は言いたくなってしまうのである。何を言っているのか読んでてもわからない人のほうが多いと思うけど。
何を言っているか何となくわかってもらえた人には、下記の記事もおすすめ↓
善悪の基準とか、常識とか、それらをつくる言葉と、それによって成り立つ世界(社会)の不思議さについて。いくつかの記事
愛情は大事だ
この物語のよいところは、死神が評価するだけあって、ビルが善人であることか。彼が愛を語るところなんかは、確かにそうであるなぁと思わせる力がある。自分にそれができるかどうかは別として。
ただ、理屈のうえではそうだなぁと思っても、それが全うできる人間なら苦労はないわけで、だからスーザンも死神も悩むわけだ。つまり、当たり前だが、二人は理屈でない恋をしちゃっている状態なんだから、そうなるのも仕方ない。
つまり何が言いたいかというと、この物語は恋心よりも、他者に対する愛情の大事さを説いているのではないかということだ。そして、それ自体は説得力のある描写ができていて、いいと思う。
ビルは次女のスーザンに稲妻が落ちるような恋を勧めていたが、そうした稲妻相手と関係を持ったら、その相手と月日を重ねて愛情を深めていきなさいと言いたかったようである。だから、まずは恋心、その次に愛をはぐくめと。ひどくまっとうなことを言っている。
とはいえ、”恋は理屈ではない”と屁理屈も言える
しかし、恋の始まりなんて自分では決められないわけで、あとから考えてみると見当違いな相手に恋をしちゃうことだってあるだろう。人を恋することなんて自分ではコントロールできん。だから、けっきょくなるようにしかならんのである。
何を言っているのか自分でも支離滅裂と感じてきたが、このまま続ける。この物語で恋に落ちる二人は、そもそも美男と美女なわけで、めでたく両想いになる。しかし、大概の恋ってのは片思いで始まるもんだと考えると、そもそもがそんなハッピーはなかなか訪れないのである。
訪れないからこそ、こうしたフィクションを通したラブロマンスで、みんなその気持ちを疑似体験したいのかもしらぬ。だって、仮にモテモテだったら現実で楽しむわけだからなぁ。
ついでにもうひとつ、さっきビルは善人だといったけど、彼の長女と次女に対する扱いに差がありすぎるのはいかがなもんか。長女はそれを嫉妬なしに受け入れているようなことを言ってた。どんだけ人間できてるんだよ。まぁこれも、物語上仕方のないことだとわかってはいても、やはりちょっと気の毒に思ってしまった。
コメント