格言とか好きですか?
20代、ニートだった頃、ラ・ロシュフコーとかの格言・箴言集をよく読んでいた。箴言集ではないが、セネカの『人生の短さについて』、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』、あとはエピクテトス『語録』などストア派哲学者の書籍も読んだ。
ほかにも老子の『老子』とか墨子の『墨子』といったいわゆる諸子百家のもの。パスカルの『パンセ』やアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』とか、まぁともかくいろいろ読んだんだけど、それらの細部は当然、もう覚えていない(笑)。
覚えてないんだけども、いわゆる格言とか箴言、その他、皮肉や風刺のこもった言葉が収録された書籍や、哲学だけど人生論的にも読めるそれらは、なかなか面白かった。
黒歴史的箴言集(笑)
で、先日昔のパソコンのデータを整理していたら、そうしたものを読んでた影響なのかなんなのか、自分でも偉そうに箴言的なものをつくって遊んでいたようだ。あの当時にツイッターがあったら、投稿していたのかも。なくてよかった(笑)。
ということで今回の記事では、自分が過去につくった黒歴史とも言える格言的な言葉をさらす。一応、現在の自分が読んでも読むに耐えうるもの、過去の自分をぶん殴りこそすれ、殺したいとは思わない程度のものにとどめておく(笑)。
てなことで、いくつか。
私のマクシム
・苦労は買ってでもしろ。というが、意志のない苦労に買う価値はさほどない。
・確認した時には、それは杞憂に終る。確認しなかった時にこそ、それは惨事につながる。
・個人的には無意味だと思うことが、社会的には意味があることとされている。
・気遣いは、気を遣う相手に気付かれないことをしてこそ、気遣いと言えるらしい。
・「守るものがあると強くなる」って言葉が嫌いだった。「守るものがなければ強くなれないのか」と思っていたから。でも、自分が「自分を守るために弱くなっている」ことには、気付いていなかった。
・この世は肥溜めとか言っているくせに、糞と吐瀉物まみれの便器、そして痰壷に文句を言ってる己が一番の汚物。
・わたしが必要とするほどには、他人はわたしを必要としていない。一方、他人がわたしを必要としてくれているとき、わたしはその他人を必要としていないし、気にもかけていないのだろう。
・自分のことを語る言葉を持てば持つほど、それは他人には語れぬことに気付く。
・自分のことを知れば知るほど、自分というものはない、ということを知る。そして、それを知った者だけが、自分は存在する、と厳密な意味で言うことができる。しかしその自分は、他人に語ることはできない。
・書かれたものというのは、それに興味がある人のみが読めばいいと思います。しかし、そう言い切ってしまうと、個人個人の関係が成り立たなくなります。なぜなら、喋ることにも同様のことが言えるからです。すなわち、喋ることは、その喋りと、その人自身に興味がある人のみが聴けばいいということになってしまうからです。と考えると、誰もが自分にしか興味がないのです。もちろんわたしもその1人です。
・蔑ろにしてきた他人に罪滅ぼしなんてできない。常に弱者は強者の掌で転がされ続ける。この世の不条理を越えて生きるには、生きないことで生きるしかない。言葉を越えて生きるしかないのに、それができない。悪人にしかそれはできない。悪人になりたい。されど善人ではない。しかし善人たらんと生きよと洗脳してくれた親を恨むことはできない。
・我らは常に、わたしは常に、無限の孤独をゆく存在です。
――以上です。
善悪を超えた言葉を獲得するために、みんな人間であることをやめよう。
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