ブラック・ボックス 記憶の罠
交通事故をきっかけに、自ら封印していた過去の断片的な記憶と、それらにまつわる謎の言葉が呼び起こされる。自分の過去にいったい何があったのか――。退院した主人公は、自分自身の記憶を巡る謎の解明に乗り出していく。ネタバレあり
―2005年製作・日本未公開 仏 90分―
解説:リュック・ベッソン率いるヨーロッパ・コープが贈るサスペンススリラー。運転中に事故を起こし、シェルブールの病院で昏睡状態から目覚めたアルチュール。事故の記憶がない彼に、看護師のイザベルは昏睡中に彼が話した言葉を書き留めたメモを渡す。【スタッフ&キャスト】監督:リシャール・ベリ 製作:ミシェル・フェレ 原作:トニーノ・ブナキスタ 脚本:エリック・アスス 出演:ジョゼ・ガルシア/マリオン・コティヤール/ミシェル・デュショーソワ/ベルナール・ル・コク (KINENOTE)
監督:リシャール・ベリ
出演:ジョゼ・ガルシア/マリオン・コティヤール
ありがちな記憶ものであり、突出した面白さもない
冒頭に書いたことが話の大筋。で、自分自身の脳に残る忌まわしい記憶と言葉の意味を探るために家族ら周辺の人物を主人公は訪ねてまわる。そして時には薬の力を借り、時には精神科医の力を借り、さらには入院していた際の担当の看護師の力を借り――としているうちに、殺人事件に巻き込まれていくと。
こうして書いてみると、記憶モノの話としてはありがちな感じもしながら、興味を惹かれる内容ではありますな。ところがこの作品、全然面白くない(笑)。
意味深なシーンは全て、脳内でジタバタしているだけ
まず、そう来るか! と萎えちゃうのが、上記の殺人とか薬の話とかは全て、入院中に見ていた自分の悪夢みたいなもんなの。だから物語の序盤から中盤にかけてのエピソードは脳内の出来事(笑)。なんですかね、それは。まぁ全部が夢オチでしたって終わられるよりかはマシなのかもしれないけど、終始退屈なんである。
一応、話の筋だけ追っていけば、ラストまで何の難しさもわからなさもなく終わるので、そういう意味ではすっきり物語が消化される。でもねぇ、消化されれば全てオーケーかっていえば、もちろんそんなことはないわけだ。
ネタバレありとか書いていて、いちいちあれがどうだとか細部を書くまでもないし、わざわざ書くほど興味をそそられる部分もなかったという、残念な映画である。
ひとつ、邦題に”記憶の罠”とあるが、主人公は記憶の罠にかけられてたっけ? 脳内の夢から覚めてからは、けっこう淡々と事が運んでいるようにも思えるが。
ここからは蛇足
人間って自分の記憶を都合のいいように改ざんして、自分自身が改ざんした記憶そのものを真実だと思い込んでいることもあるらしい。俺自身は自分の記憶にそんなところはないとは思っているものの、果たしてそれは本当か。確かめようはないのである。
こういう記憶ものの作品は、あやふやな過去の記憶は大体がトラウマ的な体験に起因するものであり、ぼんやりとした記憶の詳細を知りたいんだけども、知ることによって自分自身が信じている自分とは別の自分が姿を現してくることに混乱したり恐怖したりするパターンが多いと思う。逆に楽しい思い出だったらわざわざ封印しようとはしないんだからそれは当然と言えば当然だ。
いずれにしても、あまりオススメはしない作品です。
※ここから下は、覚え書きみたいなものなので、読んでも意味がわからないと思うし、作品とは何の関係もありません。
さらに全く関係ない話
ひとつ考えたことがある。人々が一般的な言葉の意味で楽しいということを、逆に嫌だと思う人間がいたとしたら、その記憶は嫌な記憶なのだから封印されるのだろうか。どういうことかというと、その人にとっては、他人が一般的な言葉の意味で楽しいということが嫌なのだから、その人の場合は、一般的に言われる楽しいと思われる記憶が封印されるのかということ。
これを考えるに、まず他人にとっては楽しいことなのに、自分にとってはそれが嫌なことだと感じるというのはどういう意味なのだろうか。そもそも、楽しいという言葉を使うためには、楽しさを知らないといけないわけだから、「俺はみんなが楽しいと思うことが嫌で、みんなが嫌だと思うようなことは楽しい」と言える人間は、実は一般的な楽しさを知っていなければそういうことは言えないので、本当は正しい言葉の意味での楽しいを知っていなければいけないのである。
ということで、嫌だと思ったことはトラウマになるものの、その嫌さは他人にとっての言葉の意味での楽しさではなく、他人にとっての言葉の意味での嫌さなのである。つまり、他の人と封印される嫌さの対象は同じなのである。
冷静に考えると、何を言っているのかよくわからん文章である(笑)。そもそも、前提となる問いの意味がよくわからん。
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