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書籍『現代暴力論「あばれる力」を取り戻す』栗原康 感想 生きる力を解放しろ!

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現代暴力論「あばれる力」を取り戻す

栗原氏の書籍、読むの4冊目。出版された順番を確かめてないのでよくわからんが、過去に読んだ3冊のエッセンスを1冊にまとめたような感じの内容だった。社会の束縛なんて関係ない、自分の生きる力を解放しろ! ということで、これを読んだうえでこのブログにあがってる栗原氏の他の書籍も読むといいかも。

KADOKAWA/角川書店 (2015/8/7)

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内容紹介

いま、わたしたちは、徹底的に生きのびさせられている。生きのびさせられるために、暴力をふるわれつづけてきた。そろそろ、この支配のための暴力を拒否したっていいはずだ。あえて現代社会で暴力を肯定しなおす!!(Amazon)

いま、わたしたちは、徹底的に生きのびさせられている。生きのびさせられるために、暴力をふるわれつづけてきた。そろそろ、この支配のための暴力を拒否したっていいはずだ。あえて現代社会で暴力を肯定し直し、“隷従の空気”を打ち破る!!最注目のアナキズム研究者が提起する、まったく新しい暴力論。「わたしたちは、いつだって暴動を生きている」(「BOOK」データベースより)

「はじめに」から内容を把握

ということで、どんな書籍かというと、「はじめに」を読めば大体分かる。

それにしても、国家というのは、本当におそろしいもので、どうやって経済をまわすのかということしか考えていない。人命よりも、秩序安寧。それが至上命題であり、いうことをきかない者にたいして、負い目をせおわせようとする。(略)ようするに、新でもいいからいまうごいている経済を、秩序をまもれというのである。(P6)

なんにせよ、暴力はいきるということと密接にむすびついている。(P13)

「国は経済をまわすことしか考えていない」。これは本当にそう思っちゃうよね。俺は日本人だから日本について言うと、未だに高度成長期の栄光にすがっているのか、当時の勢いを取り戻したいのか、未だに経済大国でありつづけようとしてるように感じる。あれって、誰のためなんだろうか。経済じゃなくて別の豊かさを探そうって気にならないのだろうか。個人的にはいつも謎に思っている。

で、栗原氏は「生きることと暴力が密接に結びついている」という。なぜなのか。そこで栗原氏はラウル・ヴァネゲームなる人の言説を引用する。彼は生の概念を2つに分けて考えているそうで、その2つとは…

生きたいとおもうこと

生きのびること

らしい。それを栗原氏は下記のように説明する。

前者は無限の可能性をひめて生きるということだ。ひとはいつだってなんにだってなろうとすることができる。実現できるかどうかはわからない。でも、それをやってみることはできる。(略)生きたいとおもうことは、そうやって縦横無尽に変化していく生きる力のようなものであり、ほんらい、それをあばれてゆくちから、暴力というのだろう。(P14)

これにたいして、後者はただ生存のために生きることである。ひとの生きかたに目的や方向性がさだめられ、それにしたがって生きることがもとめられる。(略)ほんらい無目的であった暴力に目的をあたえ、秩序をつくりだしたり、それを維持したりすることである。(略)そういう支配のためにもちいられる暴力のことを、権力といってもいいのかもしれない。(P14)

いま、政府も企業も社会運動も、ひとを生きのびさせることに必死である。わたしたちは、そういう国家の暴力を解除して、生きたいとおもうその力をかいほうすることはできるのだろうか。(P20)

なるほどと思います。本当にそうだよなぁって思う。そうかー、俺らは国家だの権力だのに生きのびさせられているのか。

こうして本書は、生きのびさせられずに、生きたいと思うことを重要視し、それってどういう状態にあって、どういう考え方で生きることなのかについて、アナキストの大杉栄らの言を用いて説明していくのだ。

国家は神だ

第一章 国家の暴力

どんなに時代がかわっても、征服者が被征服者を支配するということはかわらない。あくまで、社会の起源は征服であり、暴力である。(略)征服者は方や国民教育をつかって~(略)根っこにあるのは暴力。組織的暴力であり、権力というべきものである。(P38)~はじめは奴隷に抵抗されて、武力をもちいて鎮圧していたが、コストがかかってしかたがない。そこで、征服者は法律や国民教育という方法をもちいて統治することにしたわけであるが、そのためには、征服者が奴隷の生殺与奪の権をにぎり、善悪の尺度をうちたてなくてはならなかった。じゃあ、どうしたのかというと、そのベースになったのが道徳だ。
もともと道徳は、奴隷がみずからの不条理を自己正当化するためにつくりだされたものだが、しだいに征服者もまきこみ、支配のロジックとして利用されることになった。(P47)

第一章で詳細に語られるのは、国家がいかにして国民を奴隷にしているかということ。そもそも支配者と被支配者の構造には対立が起きざるを得ない。そこで国家はまず、武力=暴力で人々を支配する。しかし、これには金がかかって仕方ない。そこで、法律、要するにルールをこしらえて国民の動きを制限する。加えて、彼らの子どもを国家の都合のよい人間に仕立てるための教育を施す。

しかし、そのためには国民を従わせるための善悪の基準が必要らしく、そこに道徳が導入されるらしい。栗原氏は、「道徳とはそもそも奴隷が生み出したもので、奴隷道徳である」という。

どういうことかというと、被支配者が支配者の暴力を受け続けることで卑屈になり、暴力を受けるのは自分が悪いからだと自己卑下をし、支配者の喜ぶこと、支配者のご機嫌をとることが善であり、それ以外の行為は悪とみなすという考えを生み出す。そして、それを生きかたの基準としていくことで生まれたのが道徳ということだ。

俺はこの奴隷道徳が生まれる瞬間って、宗教ができた瞬間のことだと感じた。つまり、支配者=神 被支配者=神を信じる人たち――という構図だ。

いずれにしても栗原氏は、国家は自分たちが搾取している奴隷たちの道徳を、自らの中に取り入れることによって、その道徳観が既存のものであったかのような社会を創出したのだと指摘する。その結果、どうなるのか。

国家がやっているのは、暴力をつかって人びとを生きのびさせることである。ただ生存のために生きさせること。それ以外の生きかたをみとめないこと。キーワードは奴隷根性であり、生の負債化だ。人びとは、負い目をおわされることによって、特定の尺度をうけいれ、こうやって生きるべきだとおもわされる。まわりの評価をきにして生きること。もっと評価されようとして、他人と競いあうこと。それは、奴隷が主人によろこんでもらおうと、四つんばいになってしまうようなものだ。(略)いまの資本主義では、カネを稼いで生きるのがあたりまえになっていて、そうしなければいけないとおもわされているが、その根っこにあるのは、やはりおなじことだ。(略)生きのびるということは、奴隷のように生きるということだ。それは収奪されるために生きるということであり、支配されるために生きるということである。やってられない(P48~49)

栗原氏によると、資本主義社会の中で生きる我々はまさに、生きのびさせられているだけだということになる。奴隷なのである。確かにそうだろう。俺たちは資本主義のゲームの中で生かされている。他者と自分を比較して、競争して、そのゲームに勝つことが己の人生のとって良いことだと思いこまされている。

もちろん全てがそうなっているとは言い切れないかもしれないが、ある程度はそのゲームの世界で生きないと、この世の中で生きるのは大変である。

自分は奴隷じゃないと思う人もいるかもしれない。特に、お金持ちの人は。でも、実は彼らも奴隷なのだ。資本主義のゲームの中では。栗原氏はそのことについて、こう説明する。

この資本主義では、どんな生きかたをしてもいい、自由だといわれているが、ぜんぜんそうじゃないということだ。ちっとも自由じゃない。唯一の尺度は、カネを稼ぐこと。そうしないのはわるいことであり、たくさん稼げるのはよいことである。仕事がなくて稼ぎがなかったり、バイトぐらしで稼ぎがわるかったりすると、それに負い目をかんじ、自分はダメだとおもいこまされる。また逆に、出世をしたり、収入があがったりすると、ほめられている気がしてうれしくなってしまう。奴隷根性なのだ、かんぜんに。(略)気づいてみれば、生きのびることだけに没頭させられている。(P51~52)太字は俺

ゲンのように、何回でもゼロから生き直せばいい

国家の暴力の話から離れ、第二章では「征服装置としての原子力」と題して原子力のことが語られる。その中で、ある程度詳しく、漫画『はだしのゲン』のストーリーを紹介し、放射能に侵された人間の末路や、絶望的状況に置かれた人間がどのようにして生きるべきかについて語る。そう、栗原氏は『はだしのゲン』の主人公たるゲンのように力強く生きることに、暴力の蔓延するこの世に対抗すべき姿勢を見出しているのだ。

いま、わたしもふくめて東北関東の人たちは、すでに大量の放射能をあびている。おしまいの人間だ。なんだか、みょうに重苦しい負い目だけをせおわされて、それでいて将来なんてみえやしない。(略)希望なんてありはしない。でも、だったらゲンのように、ひらきなおって生きなおしてしまえばいいのではないだろうか。いつでもなんどでもゼロになって、あたらしい生をいきてしまえばいい。(略)しかし、もしそれすらもさせてもらえないのだとしたら、わたしたちはいったいどうしたらいいのだろうか。(P114)

このゼロになるという生き方については、栗原氏の別の著作、『死してなお踊れ 一遍上人伝』に詳しいので、気になる人はぜひ読んでみることをオススメしたい。すごく面白いです。

ということで、暴力に支配され、希望すら見出せそうにない現代において、ゼロになって新しい生を生きることを栗原氏はすすめている。でも、そのためにはどうすればいいのか。第三章で栗原氏は話を大杉栄の言った、「生の拡充」という思想に見出す。

書籍 栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』感想 「いくぜ極楽、なんどでも!」
一遍上人の生涯を紹介した本書は、一遍上人の言がそのまんま栗原氏の言として息づいている。一遍上人を介して栗原氏が己の信ずる思想を述べているのである。「はじめに」と「おわりに」ではユーモアを交えつつ、より栗原氏の現実に即した話が書かれていてそこも面白い。「いくぜ極楽、なんどでも!」 ―河出書房新社  2017/1/27―

そもそも、生きたいと思う力とは ー第三章 生の拡充ー

生きたいとおもうことは、暴力をふるうのとおなじことだ。力はあばれゆくものである。なにをするべきか、なにをしてはいけないのか、そんな価値尺度は存在しない。はじめからいっちゃいけないことなんて存在しない、やっちゃいけないことなんて存在しない。

なにをするのもぜんぶ自由だ。ほっとけ。それが善悪の彼岸をぶちぬく渇望の矢になるということだ。(略)自分がいいとおもっているのだから、それ以上にのぞむものなんてないだろう。だれの支配をうけることもなく、まわりの評価なんて気にせずに、おもいきり好きなことをやって、それがうまくいったときの気分に酔いしれる。(略)自分の偉大さを自分で感じとる。ただ純粋に、生のよろこびをむさぼりつくしたい。

そうおもったとき、ひとはなんにもしばられずに、ほんとうの意味で、自由になれる。(略)これまでのふたつの章でふれたように、ひとにぎりの人間が、力を独占しようとしている。(略)勝手にひとのことを奴隷あつかいして、ひとはこうやって生きるべきだとか、こうやって力をふるうべきだとか、自分にとって都合のよい価値尺度をおしつけてくる。(略)だから、支配されることにムカついたら、日常生活でつちかっているその感覚を武器にして立ち上がればいい。

いつだってゼロになって、オレはすごいんだとさけびあげよう。生の乱調をまきおこせ。わたしは自己の偉大さを宣言する。(P117~132)

生の拡充とは、自己の偉大さを宣言することなのだ。自身の思うままに、善悪も超えて暴れろということなのだ。そのためにはある程度の覚悟が必要だ。人から何をされようが、自分の人生を生き尽くすために力を解放する。そんなこと、なかなかできるものじゃあない。でも、栗原氏はそれでも、叫べという。力を独占する奴らに支配されないために、叫べ、武器を手にして暴れろと。

これを読んだ人は、つまり権力に立ち向かって戦えと言われているように感じるかもしれない。確かにそれはそうだ。その通りなんだろう。でも、それだけではないのだ。その前に、自己の生を存分に生きるために、つまらない世の中のルールに縛られるなと、そういうものは幻なのだと、まやかしなのだと、後天的に、人為的に支配者の手によってつくられたものなのだと教えている。

俺はこのブログのタイトルを、人生半降りブログ(人生を半分降りることを考えるブログ)としている。だからそのことについてこのタイミングで言及しておくと、人生を半分降りる生きかたの一つは、ここまで栗原氏の言ったことをさもありなん。しかり、と肯定しながらも、ゼロになって生きようとは考えない生き方だ。

人生半降りブログについて
当ブログ運営者の簡単な自己紹介と運営方針、人生半降りとは何か――など

善悪に絶対はない、単なる幻で、社会によって創りだされざるを得ないものなのだから、それはそういうものと割り切って、自分もそのルールの中で生きなければならないのなら、積極的にそのルールから逸脱する覚悟を持ちながら、自分でその都度、責任を持って善悪の選択をして生きることが、この世を気楽に、幸せに生きる術になるのだと俺は思っている。

簡単に言えば、常識的に生きるけども、常識なんてものを信じない。他人が強いてくる常識に自分が賛同できないなら、心は売らない。だが、他人にも自分の常識は押し付けない。世の中のしがらみやしきたりや守らなければならないことに対して、自分がやるべきと思うなら従う。だが、他人にそれは強要しない。逆に、強要されることには従わない。

それが人生を半分降りて、楽しく生きるための術の一つだと自分では思っている。

恋愛と仕事は同じだ

ということで、次の章は、「第四章 恋愛という暴力」ここについては、栗原氏の別の著作、『はたらかないで、たらふく食べたい』と『村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝』も大いに参考になる。

書籍 栗原康『村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝』感想 やっちまいな!
アナーキストの大杉栄の奥さんであった伊藤野枝なる人物を紹介しつつ、「あたらしいフェミニズムの思想をつむいでいきたい」という内容である。タイトルにある「村」とは、世にはびこる常識によって生きづらくなっている今の社会のことを示しているらしい。そんな村社会に火をつけて、バカになって助け合おうということか。やっちまいな! ―岩波書店 2016/3/24―
書籍『はたらかないで、たらふく食べたい』栗原康 著 人間はウンコだ(笑)
面白い書籍だ。「なるほど、そういう考え方もあるんだな」と思わせる視点で意見を放ったかと思うと、そのすぐあとにユーモアのあるふざけた一文を入れてくる。「はたらかないで、たらふく食べたい」人はぜひ! ータバブックス (2014年4月21日)ー

恋愛というのは仕事とおなじで、生きのびるためにするものだ。恋愛は結婚の原型みたいなもので、将来の安定した経済生活をいのたむためにするものである。仕事でどれだけカネをかせげたのかが、そのひとの社会的ステータスをきめるように、恋愛でどれだけよい相手をえらべたのかが、そのひとの価値をきめる。(P168)

栗原氏は上記のような、将来をどうこうとか安定生活を営むための相手とか、そういうことと関係なく、好きになった人と一緒にいたい。一緒に生をむさぼり尽くしたい。そういうタイプの人のようだ。

俺もこれには同意したい。なかなかそうはならないもの、本来、異性を好きになるのって、将来結婚したいからではないでしょ。今、目の前に存在している相手を、知りたいとか、触れ合いたいとか、心の交流がしたいとか、誰から強制されたわけでもなく(ある意味で自由意志とは思えないくらいに)内から勝手に出てくるパワーなのだ。

その思いを解放して、相手にも願わくば解放してもらって、一緒に生を享受する。その瞬間ごとが、異性とともに生きることの面白さではないか。先のことなんて、どうだっていいのだ、本来は。だが、そうなかなかうまくはいかないものではあるのだが。

ちなみに、栗原氏は『村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝』の中では、伊藤の言を引いて、同姓との友情は、将来を考えない純粋なものであるがゆえに、良さがあることについて語っている。本当に、そう思います。

暴力は生きたいと思う力だ

自分勝手に引用しているので、本書の言わんとしていることの本来の趣旨とはそれているかもしれないが、俺は上記のような感じに本書を読んできた。そして、「おわりに」で栗原氏はこう語る。

暴力をふるうということは、生きたいとおもうということと同じことだ。

もはや生きのびるということは、生存維持ですらなくなってしまっている。(略)生きのびることをやめてしまえばいい。自分の心に、自分の体に火をつけるのだ。(略)生きるということは、あばれる力を手にするのと同じことだ。(P266)

俺はアナキストになりたいわけではないけど、栗原氏の著作は人間の倫理感だの人生観だのに影響を与える力がある。ということで、本書も人生を半分降りるためには、かなり重要な書籍だ。

善悪を超えた言葉を獲得するために、みんな人間であることをやめよう。

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